問いの片歌1 晴れた日の買い物メモに単三電池 宇多喜代子 先生
毎年、おおくの「答えの片歌」を見るのですが、ときにくすくすと一人で笑ったり、わかるわかると膝を叩いたりします。ストレートな「答え」や変化球的「答え」にウームとうめいたり、選の机上もなかなか大変です。
ことに中学生、高校生など、技巧をまとっていませんので言葉が初々しく感じられます。大人には大人ならではの工夫があり、たとえば「コーヒー」「紅茶」「海」という三択に対して二択で悩んだハムレットを思い出すなんて、まさにウームとうならせます。問いの五番にしても、ただ「雨を見ている」というだけの問いに閉ざされた穴奥にいる山椒魚を引っ張ってくる間口の広さ。これも天晴れな飛躍です。洗いざらしのジーパンが呼び込むかたつむり。それも威風堂々のかたつむりです。十二歳の高木さんの答えの「エピソード」を「語り続ける」にもハッとしました。枝の動きと気持ちの動きが伝わってきます。
おおくの「答え」を見ていて思ったことは、「問い」を深く読んだり屈折して読んだりせずにそのまま受け取る、そんな「答え」と、意外性、奇襲などで「問い」を薄味にしてしまう「答え」があるということです。どちらにもそれぞれによさがあり、つくづく言葉の世界の可能性をおもしろく感じた次第です。
小説とも短歌とも俳句ともちがう形式で日本語の豊穣をたのしむことができること、酒折連歌なればこそのたのしみです。
問いの片歌2 コーヒーか紅茶それとも海を見にゆく? 三枝エ之 先生
この問いの片歌、コーヒーか紅茶か二択だったら平凡すぎますね。そこにジャンプするように海というプランを加えて、さてあなたならどう応えますか、という問いにしましたが、予想を超えて外にいろいろなプランが寄せられ、楽しくも悩ましい選歌でした。
多かったのは〈山梨県には海がないから山だよ〉というプランでした。海無し県ならではの反応ですね。もう一つ〈まだ子どもだからジュース〉といったプランも少なくなく、応募が幼い子どもたちにも広がる酒折連歌ならではの反応として少々反省させられました。
大賞を除くいくつかの答えの片歌を振り返っておきましょう。大波蒼さんの「そんなことあったわなんて祖母がほほえむ」は振り返る青春のときめきに魅力があり、田辺新造さんの「また寝言爺ちゃん軽い認知症かな」にも忘れられない一コマがユーモラスに詠われています。小林由佳さんの「まかせるわ海に行くなら赤いポルシェで」には山口百恵が、中川博之さんの「ソーダ水の中を貨物が通ってる海?」にはユーミンが生きていて楽しいプランです。中井康司さんの「ハッキリとプロポーズしてはぐらかさずに」、関口小涼さんの「口説くならもう少し良いプランを立てて」という叱咤には優柔不断な近年の男性諸君が見えてきます。
酒折連歌は言葉のゲームであり、人生の襞を映しだす鏡でもあります。来年も楽しみながら思い切った冒険プランでチャレンジしてください。
問いの片歌3 歩きだす洗いざらしのブルージーンズ 井上康明 先生
酒折連歌は、世界で唯一の応答の短詩型文芸のひとつです。片歌の問いをどのような物語で返すのか、根っこで繋がりながら、異なる世界を示しつつ向かい合うそんな工夫が必要ではないかと思います。答えの片歌には、どのように飛躍した世界を示すのかが問われています。よく知られた古典、小説、伝説などからふさわしい場面を作り出す工夫もそのひとつでしょう。
コーヒーか紅茶それとも海を見にゆく?という恋人に問いかけるような甘い問いかけに対して村岡純子さんは、シェイクスピアのハムレットの台詞に三択があれば良かったと返しています。ハムレットが「生きるか、生きざるべきか」とおおげさに悩んだ台詞を二択ととらえ、問いは三択であることを、冷ややかに示します。甘い恋などもう過去に過ぎ去ったかのような、達観した飄逸な口調に思いがけない味わいがあります。
まっすぐに降る雨を見つめるという問いから、藤村悦郎さんは、井伏鱒二の小説「山椒魚」の山椒魚を登場させ、その切ない心情と未来への希望を描きます。山椒魚は、世に出るぞという誓いを立てながら、まだ岩屋のなかに閉じ込められたままです。問いには、静かな情熱が思われますが、答えは、切なく、しかし、その視線は未来へ向かっています。問いの思いつめているような心情と山椒魚の切ない思いが重なります。見つめる視線が共通しています。
物語に取材して、思いがけない場面を鮮やかに示しています。
問いの片歌4 風の色記憶の中のあなたとあなた もりまりこ 先生
ひとつの問いかけに、答えの片歌として作者のもとに届けられる、十九文字の言葉。応募してくださる皆さんが、紡ぎ続けた計り知れない数の言葉を思うとほんとうに、感慨深いものがあります。
かけがえのない歳月を思う時、そこにはいくつかの記憶がたちあらわれてきます。
二十回という節目を迎えた今回の片歌は、記憶をテーマになげかけてみたくなりました。「過去というものは思い出す限りにおいて現在である」という哲学者の言葉を思い出すかのような、今を詠う鮮やかな作品の数々に出逢えたことをうれしく思います。
アルテア部門特選を受賞された小林滉誠さんの「飛ぶ帽子去り行く影は僕を残して」は、そこに現れた一瞬の影を詠うのではなくて、影が去った後に残されてゆく自分を思う俯瞰した視線が,内省的でありながら、鮮やかな映像となって読む人々のこころに残る作品となっています。同じく特選受賞の小学六年生佐々木琥珀さんの「まっしろのなにもない場所夢の内側」には、目覚めている時間の記憶ではなく眠っていた時に目撃していた夢を題材にしたところなど、幻想的な詩情がゆたかに表現されていました。
作品を前にして記憶の引き出しをそっとひらいて、対峙してくださった時間がまた記憶の中にしまわれてゆくその連鎖に思いを馳せていました。過ぎ去った時間は詠われる限り、〈たった今この時である〉ことに気づかされた楽しいひとときでした。
問いの片歌5 まっすぐにまっすぐに降る雨を見ている 今野寿美 先生
降りつづける雨をただ見ているとなれば、見つづけている人の内面に多少とも立ち入りたくなりそうです。雨の勢いに気を晴らそうとしているのか、そっと思いを温めて見るともなく見ているのか。そこから個々の思いの広がりにつながるようで、寄せられた片歌も多彩でした。教育長賞に輝いた藤村悦郎さんの「世に出るぞ山椒魚が誓いを立てる」は井伏鱒二の名作をふまえ、西村東亜治さんの「あの石に穴が開くのは十万年後」はことわざの〈雨垂れ石をも穿つ〉の真理にきまじめに応じていて、いずれも知的な発想の確かさに説得力がありました。今回の大賞作品村岡純子さんの「三択があればよかったハムレットにも」にも同じ評価ができそうで、その意味で一番華やかな作品だったのではないでしょうか。
一方、高幣美佐子さんの「不知火の石牟礼道子の訃報を聞きて」は、現代社会の理不尽に鋭い批評の目を向け、訴えつづけた女性への敬意と悼みを、静かに雨を見つづける心のうちに湛えています。この趣にも共感しました。十代の作者もなかなかで、岩下葵衣さんの「それくらい素直になればよかったのかな」や高雅さんの「少しだけ首かしげたらななめになるよ」など、たいへん愛らしく、心に残りました。
ひとつ、お寄せいただいた片歌に多かったのが「まっすぐに降る雨見ている君を見ている」式の答えでした。多少の違いはあってもほとんど同じで、結局一句も残せませんでした。
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