その八五


 






 







 






















  しゅんかんの 鈍色に似た まなざしで云う  

たのしすぎてどこにも帰りたくない夜って
いうのがいちねんのうちいちにちぐらいは
あるもので、それがちょっとまえの
冬の終わりだった。

銅板でつくられた大きなシーラカンスや
さかなたちが間接照明の
あかるさに包まれたお店の
天と地のあいだを泳いでいる。
かすかなゼンマイの音をたてながら。

銅や銀のからだをもった生き物たちは
みんなすこしずつずれた時間をもちあわせて
そこにいる。

友だちの持ってきたCDが、音をこぼしだすと
そのお店がどこかの海や森のずっと奥深い場所に
思えてくる。
まるで今日のために用意されたかのような
にじんでくるようなギターの調べ。

さっきまで友人とふたりで見ていた大磯の海。
路地を抜けて海岸へとすこしずつちかづくたびに
潮の匂いが漂ってくる。
海のそばで住んだ経験を持つ人間はそこに海がみえなくても
ちかくに海のありかを匂いで感じることができるんですよ
と、誰かに聞いたことを思いだしていた。

あたたかい紹興酒がすこし冷えた
からだのすみずみまでゆきわたってゆく。

おさかなやさんという意味をもった沖縄料理の
おいしいそのお店には
浜に落ちている漂着物で作られたオブジェがあった。
あおっぽいみどりいろの半透明のガラスで
つくられた<とんぼ>の前。

捨てられたガラスがとてつもない時間を
積み重ねながら波にゆっくりと磨かれて
あらたな生を得て
ここにたしかに生きていた。

ものが捨てられて拾われて
いのちがつながる確率って
いったいどれぐらいなんだろう。

すこしほろ酔いかげんのギタリストの人が
いつか見た映画の主題歌<コーリング・ユー>の
メロディーを揺れるように奏でている。

とほうもなくてせつなくて。

ものがそこに在ることも人がそこに居ることも
きっとそれはなにかを失い、なにかを残してきた
現在のかたちであるのかもしれないと、わたしは
酔った頭のまま漂うように感じていた。
       
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