その九二

 

 

 





 







 



























  問いかけの あわいで眠る 銀の栞は

あたらしい本が届く時の袋を剥がす行為は
胸のなかがちいさなざわめきで
いっぱいになる感じがする。

すこし前に頼んでおいた本が
忘れた頃に届いた土曜日。

いつもその人の随筆を目で追うたびに
じぶんがずっとずっと深い場所で
迷子になっているような気持になる。

でもそれは決して不安ではなくって
みえないものにピントがあってしまったような
あざやかな気持だ。

しらないことを教わっているときの
それで、どうなったの?
それで、それで、と
おとなの誰かにことばを畳みかけているときの
おさなかった頃が思い起こされるのだ。

ページをめくってぜんぶ読みほしてしまうのが
もったいなくて、ゆっくりと活字を追っていた夜おそく、
突然弟から電話をもらった。

思いがけなく旅のプレゼントをしてくれるという。

いちど泊まってみたかった場所だったので、
母とふたりで、同級生のようにはしゃいだ。

クルマで一時間も走ると、もうすでに山深い街に着く。
どこまでもつづく緑に囲まれた美術館で
こどものいる風景をテーマに描かれた絵をみたり、
ヴェネチアンガラスを堪能したり。

生きている人の作品も死んでしまった人の作品を
目の当たりにすると、じぶんがどっちの世界にも
ゆききしているような、妖しい気持になってくる。

とりわけ作者達の古の肖像と対峙している時など、
すべてのものが同列で存在していることが
<いま>という時間なのだと染みるように
思えてくるから不思議だ。

九十九折りになっている坂道をどんどん
くねってゆくといちばんてっぺんらしきところに
そのホテルが見えた。

今年の夏で創業126年になるという祖父が生まれる
ずっと前から建っているそこは、とてもあたたかな
匂いに包まれていた。

迷子になりそうな廊下を巡りながら部屋につくと
大きなふたつの窓から箱根の山が見えている。

書や日本画や源氏物語の一場面が壁にかけられた
和室なのにちゃんとベッドがふたつならんだ
オリエンタルなムードの部屋。

ぜんぶが素顔のまままざりあっているようで
とっても好きになってしまった。

朝はやく窓の向こうは霧に覆われていて
山が隠れていたのに、
化粧をしたり着替えたりしている間に
さぁっとはじめからいましたよという風情で
山の姿はちゃんとそこにあった。

霧に囲まれていてもこんなにもすぐに
繰り返しリセットされてゆく自然。

晴れ渡る景色にこころはつられて
元気をとりもどしてゆく。

一日しか泊まらなかった部屋に佇みながら
帰り際、ふっと気がついた。
この空間が育んできた歳月を重ねた匂いは、
いつかどこかで感じたことがあるなぁと。

それは夏になるとよく泊まっていた鹿児島の祖父の家に
漂っていた香りとそっくりだった。

もっとピンポイントで記憶を手繰ってゆくと
祖父が夏のあいだ着ていた
薩摩上布かなにかの着物の内っ側の匂い。

土曜日に思いがけなく届いた本の消印も
おなじ鹿児島だったこともやわらかく思い返していた。
旅は終わっても、じぶんのなかのどこかと
あの部屋がゆる〜くたわんだ糸で
つながっているみたいで、そこはたちまち
邂逅してみたい場所になっていた。
       
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