その九六

 

 

 






 






 




















 

蜻蛉が 風のたよりを にじませてゆく

泳ぐって、きもちいいいなといつも思う。
もうどうにでもなれと思った途端
もうすでにどうにでもなっているような
そんな漂いかたが心地いい。

と、いつも夢のなかで感じてる。

起きてからのあの、いまのなんだっけ
ふゆう感、みたいなものはって
さっきまでの記憶を辿っていると、
あ、浮遊感なんだと気づいた頃には、
ちょっと夢からもう遠くにいるときの、
むなしさもぜんぶふくめて
悪くはないなと思ったりする。   

立っているだけで蜃気楼になってしまいそうな
ある日、わたしは山梨へと訪れていた。
いつもはとんぼ帰りしてしまうのだけれど
その日は寄り道したくてずっといきたかった
美術館へと足を運んでいた。

「絵ができるまで」という美術展をやっていて
材料や道具にはじまって、絵にまつわる
準備のあれこれがとても丁寧に紹介されていた。

一枚の絵を観ながら、いまここに存在している絵よりも
すこし前もしくはずっと前のさまざまな出来事やモノが
この一枚へと静かに向かっていくエネルギーを感じて、
時間がぐるぐると遡りながら前にも進みながら廻っている
そんないまを楽しんでいた。

美術館を出ると、熱い風がみっしりと身体をつつんでゆく。

向側に立っている文学館へと足を運ぼうと、
灼ける太陽の下を歩いていた時、
少し先の目の前になにか薄く透明にひかるものが見えた。

よく見ると束になってそれはあって、いまわたしが向かう場所の
風の中で戯れていた。

とつぜん、あの束に近付いてみたいと思って
たちどまらずに、避けずに、そのまままっすぐ進んだ。

薄く透き通ってみえたものは、とんぼだった。
わたしのからだに触れるか触れないかのやさしい群れが
浮遊していた。

空中を飛んでいる昆虫なのに
かぞえきれないとんぼの漂う海のなかを
泳いでいる感じにたちまちとらわれていた。

肌に羽のどこかが触れたようにも思えたけれど
彼らはたぶんぎりぎりを縫っていたのだと思う。
それでもわたしにはなにかが触れたときの、
熱い一瞬を思いだしながら、ふわふわとした
とんぼの群れと共に泳いでいる気分で、
そこへと辿り着いていた。

       
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