その一〇六

 

 

 





 





 


















  潮風に 吹かれるたびに 輪郭とけて

すっごく不安定な形の細すぎる脚を持った
建築物が入り江に建っている。
砂浜には、扉を閉める時に確かなかちっと
振動が指先にまで伝わってくるような重厚な
造りにみえる赤い(多分)ポストがあって。
その砂浜につづく桟橋を通ると、玄関へと辿りつく。

すべてがあやふやな空気に包まれている
そんなアジア映画に出会って、観ているあいだずっと
どこかちがう時間へと紛れ込んでしまったみたいだった。

海の上に紙でできた建造物が建っているような
アンバランスなその家は、むかし女の人が
棲んでいて、いまは男の人がひとりで棲んでいる。

でも、どちらもその人たちの時間は「いま」で。
ほんとうの暦は男の人が棲んでいる「いま」よりも
2年ぐらい時間は進んでいる。

というまったくちがった時空間を生きている
ふたりの男女が手紙のやりとりをする。
事務的な間柄が日を追うごとに微妙に変化してゆく。
そして、ずれた時間を生きたままもどかしいほどに
交わし合い。
すれちがってゆく。

なんかさいごまで
せつなさの濃度が変わらない。
でも最後の最後は
ハッピーエンドな話の映画だった。

ひとりの部屋でこれを観終わってわたしは
もやもやとしたようななにかがすとんと
晴れたようなふしぎな空間の中にいた。

たぶん、きっとこの映画の中に描かれていた
「いま」のせいなんだろうなと思った。

彼らの「いま」は、まったく違う時空間の「いま」で。
いっぽうわたしとたとえば誰かの「いま」は
ちゃんと西暦2005年の何月何日でという
暦の上ではおなじ「いま」を生きていても
ちゃんと出会えない「いま」だったりする。

そんな気づかなくてもいいことに
いまさらながら気づいたとき
たらたらとしゃがんでしまいたくなった。

でも、
やっぱり。

何処かしらで生きているみんなそれぞれの「いま」が
幸福だったりちょっぴりうれしかったら
それでいいやと、ずいぶん昔にくらべたら
なんかいろんなものを求めなくなっている
じぶんの「いま」は「いま」で
大事にしていきたいと思ったのでした。

あなたの「いま」がとびっきりの
「いま」でありますように・・・。
       
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