その一一〇

 

 

 




 





 
























 

ひとしずく 血より濃いもの 砂丘に落ちる  

毎週通う書道教室で、去年のおわりぐらいにわたしの
師匠が云っていました。
文字を書こうと思って書いた時
そのことばの持つ思いみたいなものは
自分から引き寄せるのではなくて
むこうからそのことばたちがやってくるんだよ、と。

ちょっと違ったかもしれないけれど
こっちからではなくむこうから、ことばはやってくる
という感じで聞いた時の印象が深かった。

この間、友だちとライブハウスに行って
ギターデュオの演奏を聞いていた。

ボサノバの耳馴染みのいいナンバーを
いくつか弾いたあとで彼は
じゃ、次は「おいしい水」ですと曲名を紹介した。

その時頭のなかでうんあのメロディーね
好きだなぁもうすぐ始まるなぁと
納得して耳はすたんばっていたのに
わたしは彼らの演奏が始まった途端に
まったくちがったことを思っていた。
思っていたっていうよりむこうから
なにかがやってきた。

以前、この曲名と同じタイトルの小説を読んだ時に
記憶に残っていた年上の女の人と若い男の子が
会話するシーンをとつぜん思いだしてしまった。

彼女がこの曲のタイトルを尋ねると、
彼が声にするとてもリズミカルで美しい原題。
そして彼が云う。
この曲を聞いているといままでこんなに喉が
渇いていたんだということを
教えてくれるんです、と。
(台詞はここに書き写したいぐらい  
  もっともっとすてきです)

とつぜんの調べはとつぜんの小説の中の世界の
ふたりの手をひっぱってわたしのいる
そのライブハウスの部屋の周りにあった。

ありありと彼と彼女がそこにいてすれすれの
思いをつきぬけるような会話を交わしたふたりが
目の前に浮かんでくる。

こっちとあっちの関係。
あっちのお話の中の現実がすたすたと
音もたてずにこっちに向かってきている
瞬間って確かにあるんだなぁと。

小説のなかの彼や彼女が時を経ても
いつのまにかじぶんの中で血肉化
しているのかもしれないと
そんな至福を感じた夜の出来事でした。

       
TOP