その一一五

 

 





 






 






















  月光の ましたはからっぽ あしたを呼ぶよ

あぁこんなところにあったんだ
ついついなくしたと思ったのにって
それを見て心の中でちっちゃく叫んだ。

かつては持っていたのにいまは捨てたり
なくしてしまったものと同じものを
雑誌のぺージでみかけたりすると
じわっとちかづきたくなる。

「暮らしの手帖」12号に、ゴブラン織り
みたいな青い刺繍がほどこされた
すたんどつきの楕円の鏡が載っていた。

小さい頃から住んでいた家にはそれと
同じものがいつもあった。
母が化粧するときにはかならず
愛用していたものだ。

いま見ているそれは誰の所有物かというと
文章とたたずまいが大好きな
島尾伸三さんの自宅の居間にあった。

たくさんの異国の切手に消印付きの
手紙がつめこまれたカゴの前に斜に
ちょこんと。

はじめて見る空間にかつて馴染んでいた
愛用品がひとつあるだけなのになぜか
こっちの時間があともどりしてしまう。

小さい頃から暮らしていた大阪の家には
島尾伸三さんのお父さんの小説
「死の棘」が家族共有の本棚の中にあった。
黒い布地に金のタイトル。
いつのまにか本棚にそれはあったのに
だれかがそれを読んでいる気配はなかった。
子供だったわたしはその黒い本にだけは
手を伸ばしたらいけないような雰囲気が
おとなたちから放たれていたのでずっと
触れずにいた。
でもなんど本を整理してみても
その本だけはいつまでも我が家の本棚の
ガラス戸の中でいつもひっそりとそこにいた。

そしていまあの本棚から遠く離れた
わたしの部屋のちいさな本棚におさまっている。

鏡はいろんな思いがつまっているから捨てましょうと
引っ越しの時、母と捨ててきたときとおんなじ鏡が
いま暮らしていらっしゃる
島尾伸三さんのお宅にもあり、なぜだか「死の棘」は
いまもってなくすこともなくこの部屋にある不思議。

その「暮らしの手帖」の中で島尾伸三さんが
云っていることば。

心にためず、心のなかをぜんぶ、書く。

そんなふうにして彼はいろんな方々にお手紙を
差し上げているので毎日が手紙日和なんだそうです。

こうして綴りながらもわたしのこころのなかに
なにかがたまってゆく感じがする。
でもやっぱりぜんぶはかけてませんと。

ぜんぶはきだすともっとからっぽに
なりそうでびんぼうしょうのわたしは
思いとかに対してとってもけちくさいのかもしれない。
そしてこの「暮らしの手帖」12号はずっと
捨てないでいようと
心のはしっこで思っていました。
       
TOP