その一一八

 

 







 






 

























  月光が ぬ らした場所を 果実が泳ぐ

いつだったか有名な人の一週間の食卓
みたいな番組をやっていて
その第一回目が片岡鶴太郎さんだったので
興味深く見ていた。

むかし彼が墨書されている映像を見た時、
筆を手にしたときからそのいちまいの
和紙の前を離れる瞬間まで
息をこらして見ていたことがあった。

いつのまにか呼吸のやり方って
どういうんだったっけって思うほど
息苦しくなるほど見入ってしまっていた。

たぶん、書にむかう彼の気みたいなものが
画面を通して伝わってきて、片岡さんの
呼吸をしらずしらずのうちに
重ねてしまっていたのかもしれない。

それ以来片岡鶴太郎さんを拝見する度に
あの時のとまったような時間を思いだして
まえつんのめりになってその姿や
ふるまいのあれこれを目で追ってしまう。

その食を紹介する番組も、とってもよかった。
いま、食に関する番組はあふれるほど存在している
けれど、その番組は、食を通してそれを語る人が
おそろしいぐらいに浮き彫りにされていた。
ここにいるおとなのひとりの男の人の
このからだやきもちは
こんなふうに食と対峙してきた日々の積み重ね
なんだなぁと、ちょっと陶然としてしまった。

永年の習慣で夜には何も召し上がらないらしい。
空腹の時間をじぶんにたっぷり与えていると
じぶんがほんとうに欲しいものが見えてくるという
言葉が印象的だった。

ある夜、彼が一房ひとふさていねいに
グレープフルーツの袋をとりのぞいて
きれいにラップにつつんでいた。

「このグレープフルーツはきょうのためでなく
あしたの朝のためなんですね。
それであしたの朝これをいただくとき
わたしは、きのうのじぶんがあしたのじぶんの
ために尽くしてくれたって思うんです」。

というようなことをおっしゃっていて
ちょっとなみだがでそうになりました。

豊かであることって、ほんとうはこういうこと
かもしれないなぁと。

でなんとなく鶴太郎さんはむかしながらの
にっぽん人だ!って思ったのでした。

見終わってから
このかけがえのない映像がわたしの
あしたの身になりますように
そんな気持でいっぱいでした。
       
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