その一五六

 

 




 













 

輪唱の 逃げてゆく歌 風にからまる

水の入ったコップの中に指をとぷんとつけて
まだ何も書かれていない半紙の上に
指で水文字を書く。

書くというより紙を濡らしていく作業という感じ。
あした書道の先生にみていただくことばを探していた。

夜中の二時を回った頃、何処か遠くでサイレンの音がして
その音に反応したのか隣の犬が泣き出す声が聞こえてきた。

誰かがまだ起きているんだと少し安堵するような瞬間。

指は筆と違うから水を走らせた先から乾いていく。
なんどもなんどもコップにゆびをつけてつけて。

次に墨をたっぷり含ませた筆を水文字の上に置く。
そこにじっとしていると、じわじわと墨の色が
にじんでゆく。

何枚目かを書き終えてふと一枚目の書を見てみると
いつのまにか文字がふくらんで、 つぼみだった
花が開花したみたいに半紙いっぱいに満ちていた。

私がこんな字を書こうと思ってのっけたはずの墨は
ひとりかってににじんでいた。

<あなたがいるからだいじょうぶ>

はじめはうそっこだったのだ。
書の雑誌をめくっていたらあんまり<大丈夫>って
ことばが目の前にとびこんできたものだから
ちょっと書いてみた。
真夜中はこういう言葉をうっかり書いてみたくなったり
するからあぶないなと思いつつもふと私はその時
なんかに負けてしまった。

ふとだいじょうぶっていう状態ってなんなんだろうって
つらつらと思い当たる節はないかと手繰っていたら
とつぜんは〜んって腑に落ちたのだ。

ひとりでだいじょうぶはあんまりありえない。
ありえるかもしれないけれどたぶんその耐久年数は
短いんじゃないかと。
それよりもなによりもあなたがいてくれるおかげで
日々わたしはだいじょうぶだなんだなと。

翌日おそるおそる先生の前にこのことばを差し出したら
先生は、いまいちばん云われたかったことば!と
でっかい笑顔でおもいがけないリアクションをされたのだ。

どっから見てもだいじょうぶそうな先生が云われたい
ことばがだいじょうぶだってことを知って、
先生についてあらためて発見をしたみたいで
不思議な気持ちになった。
そして緊張している私をほぐしてくれるかのように
素直に受け止めてくださったことが何よりもうれしかった。

だいじょうぶってことばはよくわからないけれど
じぶんで発するよりもひとの声や文字で聞いたり
みたりすることでその魔力を発揮するのかもしれないと。

新聞配達のカブの音が近付いてくる頃、
後片付けをした夜の部屋は墨の匂いでいっぱいになっていた。

指先は水のせいですっかり冷えてしまっていたけれど
なんとなく気持ちがあたたかくにじんでゆくことに
気づいてひとりかってにはずかしくなっていた。

       
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