その一六三

 

 






 







 






 

満月に 視線感じて ひとり見上げて

土曜日になると朝から硯の入った鞄を
かたかたいわせて、いそいそと江ノ島の書道教室へ。
もう通いはじめて三年とちょっと。

そこで時間を過ごすたびになにかしら
なんだろうこの感じはっていう感覚が呼び起こされて
その答えはいつも教室にいる間はでないままで、
ふとした時にあれって、気づくことがある。
それはずっとなくしていたものが見つかった時の
ああここにあったんだと思う時のあの気持ちよさにも似て。
時々教室を後にした片瀬江ノ島駅のホームで思う。
へたしたらあと十年ぐらいは平気で通ってそうな感じが
してしまうことがあって、卒業したくない気分で
いっぱいになってしまうのだ。

この間は、お手本とみっちり向き合った臨書の後で
グループ対抗のゲームの時間にあのなんなんだろうって
思いがぽっかりと目の前に浮かんだ。
武田双雲先生はゲームしようって云う時なぜかとても
そわそわと嬉しそうで。
からだぜんぶから元気がはみだしてるような先生なので
生徒のみんなもそのそわそわが伝染してきて
なんだかスタバかどこかの誰かと誰かの会話が
まざりあってどよめきあってるあの空気みたいに
教室が染まってゆく。

九画の漢字一文字をそれぞれあたまにうかべて
(何を考えたかは知られちゃいけないようにして)
半紙にその思い浮かべた漢字を一画ずつ書いて、
次の人へとその半紙を手渡してゆく
っていうゲームをした。

ルールは、思い浮かべた九画の漢字はそれぞれ
かぶっちゃいけないという、一見シンプルそうなのに
ちょっとなめられないひとくせあるこのルール。
(グループが6人だったら6つのそれぞれの漢字が
完成しなきゃいけないってわけです)

半紙に誰かが書いた一筆めがたとえば短かめの縦画で
じぶんもおなじような縦画だった場合。
彼女や彼の考えている九画と自分の考えていた漢字が
かぶりそうかなと予測したらこんどはまた違う
九画をあたまのなかで探しはじめなきゃならなくて。
(説明へたっぴですみません)

これってひとりで悩むって云うよりみんなでゴールを
探してるみたいな感じだなって思っていたら
いちまいの半紙に墨書された一画はサッカーのパス
みたいなもんだからねと武田先生。

誰かの考えている九画とわたしの考えている九画は
まるでおなじときとおもいもよらないときがあって。
そこには誰かがいま何を思って筆を半紙に近づけているのかを
見守っている時間があって、それはとても相手のことを
知ろうとしている時間なんだなって思ったりした。

で、じぶんの考えていることはというともうすっかり
相手に委ねるわけです。
気づいてねって軽いテレパシーを送りながら願いと共に
半紙の上に託したパスをする。

筆がためらいながらも閃いたよみたいな見逃しそうな
目の前にいる人のアイコンタクトがあってわたしの
放ったパスをすっと気持ちよく受けて次の線を
つなげてくれる一瞬。
わかってくれてうれしいっていうほんとうに
ちっちゃなしあわせな気分に満たされる。

隣の人からのそれぞれの線質でつながれた墨文字は
みんながだれかの思ってることを想像しながらつながれた
パスの証みたいで見なれたはずの<星>っていう字が
ちょっとだけちがってみえた。

教室の帰りお天気がよくて海まで足を伸ばしたいなって
思ってた片瀬江ノ島駅で、なんか妙な感覚が
ゆびとかに残っている気がしてなんだろうと思った。
父や弟とキャッチボールをしていたちっちゃかった頃が
いまじゃなくてさっきからずっと
ついてきている感じがしていたのだ。

なんかしらないけれど彼等が放ったのあのどしんとした
痛くて重たくてグローブの中の掌がまっかに腫れてそうな
そんな一球が甦ってきて。
あ、あのゲームのせいなんだなって思った。

そんなことなんで思い出してるんだって思いながらも
もし今仮に父とキャッチボールをしたとしたら
彼の投げたボールをどんなふうに受け止めてわたしはそれを
父に放つんだろうって、考えなくてもいいような
ちょっとめんどくさいことをほんの一瞬、想像したりして。

そんなことがよぎった時の江ノ島の空が、
とめどなく晴れてて、なんとなく、よかったです。

       
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