その一八四

 

 






 







 








 

キヲクマチ 輪郭ぶれて かげろうになる

真っ黒い表紙におおきな数字がひとつ白抜きされた本。
おなじものがいくつかあるので、よかったらどうぞと
その日お目にかかった方に頂いた小説を終電近くの電車に乗って
立ったまま読んでいた。
たぶん恵比寿あたりを通過したころ、なんだか
まえぶれもなく車両の前の方から順々に電気が
消えていった。

ドミノ倒しのように、規則正しいリズムで
車内の灯りがとんとんとんと落ちてゆき
またたくまに真っ暗になった。

すこしずつゆるやかに速度を落としながら走る電車。
ホームの灯りがまぶしく感じられるぐらいに
私達見知らぬもの同士は闇の中にしばしいた。

停電でなく私の乗っている車両だけってところが
ふしぎな感じで、あたりの明るさとのコントラストを
異次元の出来事のように浮かびあがらせている。

暗い車内からネオンきらきらのあかるい場所を見る。
いつもの日常が何処か中心線のアングルをすこしずらしてる
みたいに目に映る。
それでもゆるりゆるりと走っている電車は、私達の車両だけ
ちがう運命をもちながら、まったくしらない場所へと誘おうと
しているかのようなリズムだった。
そんなちょっとずらした世界を待っていたかのように、こころが
こころなしかそわそわしてる。

でもそわそわを軽くいなすように平常はとつぜん戻ってくる。
しばらくするとひと駅分闇を携え走った電車に、
逆ドミノのような感じで、灯りがとんとんとんと順序正しく点った。
なにも起こらなかったかのように元の明るさを得ると、
ちょっとつまらない感じもしてきて
私は再び本のページをめくる。

何行か読み進めた時、私はとっくんとっくんと鼓動を感じた。
誰か私じゃないからだの器からはみだしてきた音なのかと
錯覚しそうなぐらい脈打っていた。
いまさっきふいに灯りをなくしてしまった車内のように、
その小説の中では窓のないエレベーターの中で、
<いちどにすとんと照明が落ちて闇に>なるシーンが描かれていた。
ちょっとした偶然の一致を目にしてわけのわからない胸騒ぎを覚える。
その小説の中のほうが断然強烈な闇だったかもしれないけれど
数分前に体験した、取り残されたように塗りつぶされた
この車両だけに訪れた闇を思いだしていた。

レールの上を走るひと部屋の箱の中だけが、灯りを脱いでいる今し方の
映像と共にこの夏の忘れられない出来事をふりかえる。
今年は新しい人やなつかしい声、うれしいことふしぎなことに
たくさんであった夏だった。
そう思いだした後でとめられないスピードでもって記憶があともどりした。
いつも闇の中で手探りするような輪郭を持っていた人が
虚をつかれたように浮かんでくる。
ずっとむかしの八月。潮風の中で痛いぐらいの握手をしてくれた人の
あたたかな熱を帯びたぶあつい掌の感触が、まるで夢の中の現実のように
ここにとつぜん甦ってきて、その感覚に戸惑っていた。
小説の中のおもいがけない出来事と、ちょっとした日常のアクシデントが
まぜこぜになって、螺旋状の記憶にかるく翻弄されてしまった
夏の終わりの木曜日でした。

       
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