その一八五

 

 






 







 









 

月光が 透けてくような オブラート踏む

コップやお皿をお湯で洗おうとして蛇口をひねって
しばらくすると、いつもは感じないあたらしい尖った
痛みをひとさしゆびとかに感じる時がある。

水のときは、ゆびのうえをいつものように水が流れてる
ありふれていた鈍さで通り過ぎていたのに
お湯に触れた途端、なんだかよそよそしい痛みに
気づく。
この身に覚えのないちくちくをいつどこでこしらえて
しまったのかと辿っても辿りきれないあやふやな気分に
一瞬どよんと陥ってしまう。

この間、そんなかすり傷めいたものがゆびじゃなくて
からだのなかのきもちとかがしまわれていた場所あたりに
たくさんついてるような気がして、しばらくくぐもった
日々を過ごしてしまった。

誰かと会って、おいしい食事をいただきながら話した
翌日は酔いがさめていてもすこし酔っている心地が
名残りをとどめているのでなんとなくゆらいでる。

このゆらいでる感じって、たとえば温泉に浸かり過ぎた後に
訪れる湯あたりみたいにわたしの場合、誰かに会ったあとは
「ひと」にあたってしまう。
長時間雑踏ばかり歩き過ぎた時もこれとおなじような感覚が
しみついてしまうことがたまにある。

湯あたりのさなかには気づかなかったことが、からだに
触れていたお湯の感触が抜けたみたいに、ひとに会っていた
余韻が抜け切った頃とつぜんなにかに気づく。
そんなんじゃないのに、やっぱりそう思われていたのかそんな
フレームの中にわたしはすっぽりその人の中にはまってしまって
いたのかと。
耳にした時は微笑むぐらいのへっちゃらさだったのに、
ゆらぎを覚えなくなった頃、誰かが放った一言が酔ったからだに
刺さったままだったんだと苦笑する。

プラスチックの器についてるこまかいきず。
浮世絵のなかの篠つく雨みたいな線が、きもちなどが棲んでるらしい
場所に描かれてる、そんな感覚をひさしぶり味わっていた。

先日もういちど見たかった映画『シべールの日曜日』を夜中見ていた。
10歳ぐらいの孤児院にいる女の子シベールと17歳年の離れたピュアな
男の人ピエール。親に捨てられた彼女と日曜日だけは父と娘のような
恋人のような感じで森の中で過ごしているある日。
ピエールが指をどこかで傷つけて切ってしまう。
そのときすかさず彼女は彼の指をなめて手当てしてあげるそんな
甘美なシーンがあった。
手当てを終えて唇からピエールの指を解放した後、シベールがいう。
<あなたの血を飲んだからあなたのこころがわかるね>
字幕を目で追いながら、どきっとした。
フランス映画っていつも女の子であるはずの女の子はひとりもいなくて、
ちいさくても生まれた時からすでに女の人なのねと気圧されていた。

だれかのこころなんてしらないほうがだんぜんしあわせかもしれないと
おもいながら、痛くなって気づくその場所あたりにひざびさ邂逅した
気分だった。
でも、ほんとのところわからないのはじぶんのこころなのかもしれないという
気持ちがふつふつ沸き上がり、誰か知らない人に軽いジャブを喰らった
感じがした。
そのせつな、もいちど反転したくなった。
記憶って渦巻く感情がかさぶたになったのち、ときどきそれは
すっぽり輪郭だけ残して抜け落ちてしまうでしょう。
あしたには忘れてしまう天気予報のようなものなんだからとじぶんに
言い聞かせてみた。

       
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