その一八六

 

 






 




 







 

セーターの 胸のまんなか 潮みちる匂い

どこか遠くの知らない海のあたりで台風が生まれている
せいか、カーテンがそよぐ度に潮の匂いが廊下や部屋の
すみずみまではいりこんでる感じがする。

七年前にここに暮らし始めた時の、あ、うみのにおいって
気づいた時のちょっとうれしい感じは、いまも変わっていなくて
こころのすみっこあたりがすこしだけそわそわする。

鼻を掠めてゆく風に、すこし離れたところにあるぽつんとしてるのに
ほがらかな江ノ島のことがちらっと思い浮かんだりするけれど、
いつもそこを通り過ぎて、なぜだか隠岐の島に家族で遊びに行った時の
記憶がふいに甦ったりする。

漁師さんのマホガニー色に灼けた肌や、コンクリートに響く母の
心地いい音のするサンダル、幼かった弟が父の布団の中で
甘えていたことや旅館のうちもそとも湿った潮の重たい匂いに
包まれていたことなど。

風なんてすぐに過ぎ去っていくものなのに。
たえず畳み掛けるように潮の香りのみえない膜みたいなものに
包まれていると、この潮の匂いがしているあいだは
だいじょうぶ、このささやかな四人家族は守られてるんだって
そんな安堵した感情ばかりが芽生えてきたあの頃が風にまぎれてゆく。

母と住むこの家の中を吹きぬけてゆく潮風。ここのところ
この風の名称はなんとなく<隠岐の島>っていうことになっていて、
すこしだけ名前を呼んで、ふたりしてなんとなく笑う。

この間、とつぜん思い立ってまだ出会ったことのない匂いが
知りたくて近くの香りの専門店に寄ってみた。

ずいぶん前に友達が、わたしの生まれた月日の運勢が書かれた本の
ページのコピーを送ってくれたことがあった。その中でわたしの
星座の花は乳香ですと書かれていたので、その時からすこし
気になっていて知りたいなと思っていたのだ。

エジプト系の旅番組を見ているといつも耳にしていた乳香という
樹木。火に焼べると芳香がするらしいその香りってどんなんだろうと
その名の音と字のつらなりからなんとなくあまい香りをイメージ
していた。
店のアロマセラピストの女の人が、どうぞとすすめてくれた小瓶の
口に掌をちかづけて風を送ると、ずっと想像していた匂いとはまるで
ちがうレモングラスに似た香りがした。

でもそれは私のしらない匂いで、過去の記憶から手繰り寄せられない
はじめての匂いだった。
なつかしいとか、あ、しってるとかっていうのとも違う新鮮で未知の匂い。
夏の雑踏ですれちがった時、涼しげで鼻先からすっといなくなってしまう
のがじょうずなとがった感じの柑橘系。
そんな見ず知らずの男の人のフレグランスみたいな香りがしていた。

名前は知っていたのに出会ったことのない香りに出会えて、すこしばかり
うれしかった。
たぶんはじめての人に出会って、あ、はじめての風情の人だなって
感じる時のあのうれしさに似ているのかもしれないなって
乳香のなめらかな瓶の肩をみながらそんなことを思っていた。

       
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