その一八七

 

 






 






 





 

いつの日か なくしてしまう けむりのなかで

春も秋も冬もみんなそうなのかもしれないけれど
夏が終わるなって思うとき、去年の今頃をつらつら
描きながら、繰り返しってことばが浮かぶ。

とりわけ夏がやってきて終わる時そんな感じが強くする。

直線でずっと彼方でちいさくなるものを見送るんじゃ
なくて、遠くに行ってしまったものたちはその尻尾の
ベクトルをくるんとあたりまえのように方向転換して
また長い月日をかけてこっちにやってこようしている。

でもいつも失敗する。
うずまきのはじまりとうずまきのごーるはいつも
すぐに手が届きそうで届かなくて、あ、こっちに
やってくるかもしれないって思ったときはもうておくれで、
いつもこっちとあっちはすっとだれのしわざなのか
入れ替わってしまってる。

夏はちいさいころからそんな風に過ぎてゆく。
誰か女の詩人の方のエッセイで、裸足で砂浜に
立っている時、片足だけあげてその足裏に冷たい風を
感じたら秋だと思うことにしているって綴られている文章を
読んだことがある。
季節のところどころにちゃんと栞をはさんでおくみたいで
すてきだなと思った。

ついこの間ふしぎなゆめをみた。
妻をなくした男の先生と画材屋さんにいってクロッキーノートと
色鉛筆を買う。レジでそれを包んでもらっているのをわたしは
前を向いて、そして先生はレジのカウンタに背を預けながら待っていた。
たったそれだけのゆめだったのだけれど、ゆめのおわりに先生は
君といっしょに田舎に帰って、ひさしぶりあいつの墓参りでもするかなって
すこし微笑んだ横顔をみせてから、わたしを現実のせかいに引き戻した。
いまもそこに先生がいたみたいなリアルさに満ちていて、起きてからも
そのゆめのことが気になってしかたなかった。

その日の朝、シャッターを開けて庭を見ると、夕べから飛び立たない蝶が
ゆりの花を支えるための緑のつっかえ棒の先端にまだずっと止まっている
のに気づいた。
一晩をずっとそこで過ごしていたみたいなそんな佇み方だった。
シャッターを開け終わると羽を開いてこちらにふわりと靡いてきて
あいさつするみたいに屋根の上を漂うように消えた。

印象的な蝶をみたせいでなぜか蝶を好きだった先生の奥さんのことが
思い浮かび、あ、あのゆめなんだったんだろうと思った瞬間
浮遊する蝶の羽の残像とともに思いだした。
そういえば、奥さんのお命日だった、今日って。

いまを過ごしている時間のなかだけでくるくると季節はらせんを
描いてると思っていたけれど、ひそやかにあっちとこっちの季節が
うずまきのなかにまぎれこんでる、そんなくりかえしが夏の中に
しみこんでいるのかもしれない、そんな実感を持った。

夏の尻尾はことしもつかみそこねた感じだけれど、このくりかえすって
運動がときおりせつないって感情を運んでくるんだななんて、
なくしていたものをみつけたときみたいな気分で、その日いちにちを
過ごした九月のとあるいちにちでした。

       
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