その一九五

 

 






 


 



 


 








 

もういない いびつな場所に 西日が射して

どこか東京の下町あたり。
坂をのぼってゆくと、何段かの階段がついていて
そのいちばんてっぺんから向こうをみると
夕焼けの沈むのがちょうどいい感じでみえるらしくて、
そこの場所を<夕焼けだんだん>というらしい。

段々坂からなのか、いちだんごとに段々夕焼けがみえて
くるからなのかわからないけど、そのなまえがいいなって
思いながら、ひとりの夭折した画家がみていたそこからの
風景をいつか見てみたいと思った。

彼の絵は、昔よく読んでいた小説の表紙の絵を飾っていたので、
その頃親しくしていた人の顔や表情やその小説について
いくつか言葉を交わしたことが甦ってきて、
なつかしい気持ちに染まってゆく。

浮遊するひとやものたちが描かれているフラスコ画。
男の人でもあるような女のひとでもあるようなもしくは
ひとでもだれでもないような。
そんな顔、体にみえてくる人物らしき人たち。
描かれるモチーフははいつも地上に足を触れずに、宙を舞う。

地上から離れているからだの一部を見ていると
自由だとかそうじゃないとかそんなこともどうでもよくて
解き放たれていることのよろこびが伝わってくる。
この感じは、なんだかどんどん此処から離れてゆくことへの
あこがれにちょっとだけ近いのかなと思った。

フラスコ画の一部が風化して引きちぎったみたいに剥げてる。
意図された欠落がその一枚の絵の中にあった。
なくすということについて彼は、いくつか言葉を遺している。
欠ける前がもっとも強いのではなくて、欠けてしまったことで
欠けた後の方がより強くあることができるということです、と。
無造作にも見える<風化という名の幸福>の中で綴られたその
言葉の前でわたしはぎゅっと胸がしめつけられて、
そのせつな明るい陽が射したみたいな感覚に陥った。

欠けるまえが、100だと思うからつらいのであって
欠けてからの、じぶんがよりじぶんらしいと思えることだって
あるなって、ついつい引き寄せて考えてしまった。

ないことへの強み。
たぶんそんな強さへの憧れがどこかに潜んでるのかもしれない。
あの浮遊する人やものたちの高揚感が放つエネルギーはたぶん
そんな強さと対になってる気がしてくる。

太陽がそこにあったときよりも沈もうとしているときの
撓みながら燃えている夕陽の力強さをふと思いだす。
<夕焼けだんだん>の映像をみながら画家のみていた時間を
追体験してみたいなとちらっとそんなことが過った。

       
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