その二〇六

 

 






 








 







 

めをつむる 逃げてるせつな めのうらに虹

久しぶりの上野公園。
東京都都現代美術館の手前あたりの噴水のまわりを
インディアンに扮した人たちを幾人かが
囲んでいる。

彼等のいろとりどりの羽根のうしろっ側には
まろやかな噴水が太い柱になってふくらんだり
しずんだりしていた。

まわりを囲む人たちはみな携帯を掲げるようにして
映してる。

わたしは撮るっていう行為があんまり得意じゃなく
もちろんたまに撮られるときもですが
苦手なもののひとつなのだとおもう。

「撮っておいたら」って声に促されて彼等をファインダー
(まだアナログを手放さないままでいるのですが)の中に
のぞいてそれなりのフレームの中に捕らえるのだけれど
あんまりうまくシャッターを押せない。

押せないんじゃなくて押したくないにどちらかといえば
近い。

許されてるというかどうぞ写していいですよって場面でも
シャッター切ってもいいんですか?って
とてもひけたこころが充満してきてどよんと
きもちが曇る。

ファインダーのぞいてフレームの中にその人を発見するとき
いまがいつかいまじゃなくなっていつかどこかへそのひとは
ぜんぶを置いていってしまかもしれないことを思って
せつなくなるのだ。
シャッターを切れない。構図をきめられない。
母や父や弟や彼等の家族や彼等の愛するチベット犬などをふくめた
すべてが、どこか遠くへいってしまうような気がして。

いちいちほんとめんどくさいおんなだなってじぶんで
思うけど、きわめてほんとだからしょうがない。

なのに写真を撮ってる人のことは大好きで、撮る人と
撮られる人のスリリングな関係性が綴られた本やことばに
出逢うともうそれだけで満足してしまって
ほんとの写真のことなんてどうでもよくなったりする。

あるカメラマンの人のことば。
屈託をひきずりながら路上で写真を撮ってると、
ある時点からトランス状態に陥ってシャッターを押し続けて
しまうと綴られていて。
それはある種、放電に似ているらしい。
達成感でも充足感でもないけれど快感なのだと。

かっこいいなって思った。
いっしゅんののちすぱーくするような撮ってる姿が浮かんで
彼の写す写真以上にすきだなって思った。

その日の上野公園は晴れていて、空がとても高く感じられた。
高いってことは遠いんだなってことをあらためて思う。
じぶんより少しお兄さんやお姉さんが聞いていた
はっぴいえんどの「風をあつめての」さいごの歌詞たぶん
三行文ぐらいのイメージが空にあった。

       
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