その二五〇

 

 




 







 






















 

すれすれに こぼれてしまう 水のゆくえは

なんとなく責められているきぶんに
なるから、すこし苦手だなって思っていた
ビュッフェの絵。

自転車も暖炉も椅子もイーゼルも
それぞれの存在がなにものとも
溶け合わないと主張している。
描かれているものすべてのものに
輪郭線がくっきりと刻まれているあの黒い線が、
おちつかなかったのだ。

でもふとビュッフェのことを語る美術番組を
みていて、藤田宜永さんの考察がとても
おもしろくて、すこし彼の絵に興味が湧いた。

あの黒い線は防波堤のようなものと、
おっしゃっていた。
あらわな線をそんなふうに考えたことはなかったので、
ついつい語り口に引き込まれていった。

<なかにある生々しい感情が外にでないような
そんな防波堤にみえるんです>。
つっかえ棒とも、たとえていらっしゃって
あの黒い線がないと、なにかが崩れてしまうから
あんなに鋭い線を人や建物やもの達に描くのだと。

そんな言葉を耳にしながら、あらためて
ビュッフェの絵を見ていたら、あの輪郭線は
あそこになくてはならないもののようにかんじてしまう。

なかに内包されていたひみつのような
どろどろのものが、対象物にはつまっていて、
あの黒い線がなければ、あのフレームの外にとめどなく
流れ出てしまう液体状のものを想像してしまった。

いろんな思いがそこに駆け巡り、絵から離れて、
ふとこうしてつくっている定型詩も
藤田さんがおっしゃるところの輪郭線みたいなもの
なのかもしれないなって思った。

577577という黒い輪郭線がなかったら
もっととらえどころのないなにかが、
こぼれつづけてしまうのかもしれない。

こわいなって思う。今まではあの黒い線がじゃまだなって
思っていたけれど、あの線がぜんぶうしなわれていたことを
想像してみたら、断然そっちの方がもっとこわいのかも
しれないって思った。

冒頭に責められてるって表現したけれど、もしかしたら
それは迫ってきてるってことだったのかもしれない。
描かれた摩天楼だってそういえば、建物であるのにそこに
じっとしていないで、どんどん天に向かって成長しつづけている
ような黄昏のようなくらさのなかにエネルギッシュなものを
感じたことがあった。

たぶん、父の本棚にもあった画集だっと思うから
はじめてビュッフェの絵にあったわけじゃないのに
藤田宜永さんの言葉があんまりにも、むねにまっしぐらに
響いてくるので、わたしは生まれてはじめて
ビュッフェの絵を体験したような気になっていた。

       
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