その二五七

 

 






 





 






















 

迷い道 しゃがんで拾う きじ猫の声

この間、横浜でやっていたミヒャエル・ゾーヴァ展に
行った帰り。
ミュージアムショップで買った「ちいさなちいさな王様」と
「クマの名前は日曜日」のポストカードやボールペン、
オーバル型の箱に入ったチョコレートをそっくりそのまま
なくしてしまったことに気づいた。

ぼんやりしてる割には、落とし物はあんまりしないほうだと
思っていたのに。
ごっそりなにかをかたまりごとなくすって、なにかがかつて
あったことが、圧倒的な存在感で迫ってくる。
なんかちがう世界に足を踏み入れたような、みょうちくりんな
きもち。
おおげさだけれど、まるでゾーヴァの絵本のページの中に
はいりこんでしまったようなふしぎな感覚だった。

しばらく、呆然としたけれど、たちなおりが早いわたしは
ちゃんとあきらめることにした。
もうもどってこないんだからって。
こういうときに子供の頃のじぶんがふっとたちあらわれるようで
とまどうけれど。
グッズを目にしたときのはなやいだ気持ちも
ぜんぶどこかに落としてきたんだって思う事にした。

そのとき読んでいた本に書いてあったことばを思い出した。
<ひとが、存在していることの根っこには欠落がある。
あらかじめ、欠けてしまったままの姿でうまれてくるんです>
そしてその<損なってしまったものは、スペアがきかなくて
なにかで埋まるものじゃないんですよ、ただ欠けるし
ただなくなるんですよ>
なんとなく安堵を誘う文章だなって思って、いつまでも
気になっていた。

ああ、この場所ははじめてなのに知ってるって思ったり。
あ、この人ずっとずっと過去のいつかにちゃんと
出会っていたかもしれない人だって思ったり
することがまれにある。

そのときの気持ちをうまく言いあらわすことはできない
けれど、なんでだかそういう場所や人と出会うと、
あぁここにあったんだ! こんなところにいたんだ
っていう一瞬だけれど、なくしたものがなんだったのかが
わかるようなそんな瞬間にであえる。
なくしていたことも忘れていたけれど、なにかを
さがしていたのかもしれないっていう感覚。
根拠はないけれど、あの感じって、たぶんずっと
失い続けてきたものとやっと出会えたような一瞬の
ごぼうびのような感じがする。

いまこうして文章を綴っていても、ひとめぼれした場所や
ふたりで繭の中にいるような気持ちになったひとに
邂逅している気分になる。
<ただ欠けるし ただなくなるんですよ>って言葉にも
むしょうに焦がれつつ。

       
TOP