その二五八

 

 






 






 
























 

ふたしかな こころすっぽり つつまれる夜

みちゃいけないものについつい惹かれる
ことがあって、わたしにとっては20代の頃とつぜん
すきになったのが、エゴン・シーレだった。

おびただしいぐらいの自画像を残しているけれど
そのどれもが彼そのものであるようでないような
そんな印象がする。

まっすぐ立っていることさえつらくて、からだの
中心をねじったような姿や、ふかしぎなかたちに
まがったてのひらや、頬に手をあてたその力が
つよすぎるせいか、その上の目のかたちまで
変わってしまってるような自画像。

彼の絵を見ていると、たったひとつのじぶんなんて
どこにもないんだなって気持ちがしてくる。

ばらばらでこなごなで、ちりぢりで。
そうやって鏡の中のじぶんを、どこまでもちぎってゆく
いたいぐらいの対峙の仕方に、ひきよせられてしまう。

この間、日本橋で、「ウィーン世紀末展」を見に行った。
かつて夢中になっていたシーレの懐かしい絵にあいにゆく
ぐらいの軽い気持ちで出かけた。

ウィーンの画家達の絵がフロアを飾る。
シーレの作品を間近でみていると、その絵筆のスピード感や
執拗に筆を重ねていった行為が、なまなましく展開されていた。
むかしじぶんで勝手に名付けていたシーレの形容詞めいた
<痛さ見たさ>って言葉をふいに思い出してこころのなかで
苦笑する。

クリムトにも視線をあずけながら、ふたたびシーレの作品に
出会った。
それは自画像でも人物ではなくて、一本のヒマワリの絵だった。
天にもとどきそうなぐらいに成長しすぎたヒマワリが、細長い
キャンバスに描かれている。
かろうじて、つながっている大きな葉は、茎の両脇にだらりと
なにかをもてあますように垂れ下がっている。
わたしはその絵の前にたたずみながら、そこからいっぽも
動きたくない衝動に駆られた。

ひとめみて、なんだかぜんぶそっちの世界にもっていかれた。
しゃがんでしまいたくなるぐらいすきだなって思った。
夏の真ん中を生きている鮮やかな色彩とはほど遠くて
なんだか孤高の植物としてのヒマワリに。

そして、じっと眺めていたら、このヒマワリこそが
どの自画像よりもシーレそのものに見えて来てしかたなかったのだ。
いつか彼が習作について語っていた言葉の中に、
<親密に心の底からみつめれば、夏なのにそのなかに秋めいた
木を感じることができるのです>と。
その言葉がぴったりと寄り添ったようなその作品に出会った
せつな虜になっていた。

そんな彼の心象風景に触れたことを、思い出してる今。
少し時間が経ったというのに、あのヒマワリのことが
脳裏にきざまれて仕方ない。
うまくことばがあてはめられなくて、どこか昂っている。
知っていたつもりになっていたシーレの絵に邂逅できた幸福は、
最後の一行になかなかたどりつけない気分に、とても似ていた。

       
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