その二六三

 

 






 







 
























 

おちてゆく きらいみらいと つぶやきながら

この季節になると、ぶあつくなりすぎた
きぶくれたみたいな手帳が気になる。
ほとんどが新聞のきりぬきやら、いただいた
絵はがきや、チケット類などで、ぶくぶくに
なっている。

ゆびのおもむくままにぺらぺらめくる。
だれかが放ったことば、しぐさ、
むねにまっすぐ届いたせつなたちどまってしまった
ことばのあれこれがぺーじのあわいで眠っている。

眠りかけていたことばを、すこしかるくゆすって
起こしてみる。
いまじぶんのまなこのましたにあるのは、5月26日の
日記のページ。

<ルピナスの種をかばんに入れて
グラハムベルがあちらこちらに蒔いていたらしい>
青いペンで書かれたことばのまうえにいる。

絵本作家でもあったターシャテューダさんが
おっしゃってたことばだと思う。
むかしから、なんだか種を蒔く人たちに興味を
いだいてしまうのか、あたまのすみっこに
種を蒔いているおじさんのイメージがすみついて
いるみたいなのだ。
それはおばさんではなくて、いつもおじさんで。

なにもなかった荒野や野原にある日、春になると
紫色の蝶の形に似たふさがたわわに実ることを
思い描きながら、種がふわりと風にのってゆく。

電話を発明したベルが、ちいさいころそうやって
種を蒔いていたなんていうエピソードに
惹かれた。

種と土が、ベルのきまぐれみたいな
種まきによって、たまさか出会うのだ。
まちがいであるとかただしいだとか
そんなややこしい意味などともえにしを
むすばないようなかたちで。

声と声をむすんで、ことばをつないで
そこになにかしらの、じかんをたわませることと
大地に、思いがけずこぼれた種が土の中で眠り
雨のめぐみをうけながら、ある日ふたばをのぞかせて
だれかをほころばすこと。
このふたつのことが、うまくたどれないけれどそこに
みえない糸みたいなものが横たわっているような
気がする。

たとえばゆめをみるとき、たぶんゆめの種みたいなものが
あたまのどこかに着地する。
ベルのようないたずらずきのだれかが、そっと
たねを置いてゆく。
そのゆめのたねは、じぶんのあたまをねどこにして
うまくいけば、育つかもしれないし、そのまま
たねのまま、永遠にねむりつづけるかもしれない。

ゆめ、たね、ゆめのゆめ、たね、ねむる。
しあわせだとかしあわせじゃないだとか
えたいのしれないものをときはなちながら。

       
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