その二六七

 

 






 







 




























 

ゆうぐれは きずあとさえも 失いたくなくて

もうずいぶん昔にじぶんにも訪れたらしい
成人の日。1月11日。
マフラーと手袋のあたたかさを頼りに、
駅の改札を抜けて階段を足早に駆け上がる。

はじめて降りたった駅、神楽坂。
去年の秋にはじめて観てから気になっている、
野口毅さんの灯台の写真展。

去年観た絵や写真の中では勝手にベスト3に入るくらい
ふいをつかれた、作品群だったのが、彼の灯台を
撮影した写真だった。
それを目にしてから、じぶんのどこかに、ありありと
灯台が存在している。

木の床がひとびとの足音でここちよいきしみを
たてている、隠れ家のようなギャラリーの中を
外の風がふきぬける。

みんなコートを着たまま、灯台の前に佇む。
ちいさな無人島に、ゆったりと建つ水の子島灯台。
訪れる前は、かつてみた灯台を思い出して再会って感じを
予想していたけれどそれはすこしだけ違ってた。
まぎれもなくはじめましてって感じで、そこにあった。

明治37年に初点灯されてから、いまも光を放ち続けて
いるらしい、その姿はたゆたう時間を抱えている。
そして、まっすぐに伸びてゆくそのからだのどこかには
みな、戦争の傷跡もいっしょにまとっていた。

その姿に目を奪われる。
無傷であることの不安とたしかな傷が刻まれている事の
ゆるぎない包容感。
すっくと立っているのに、傷跡をみせながら、しゃがまずに
立っていることを目の当たりにしていると、じぶんのなにかが
灯台の景色の中へ傾いてゆくような感じがする。

今回は外側だけではなく、内側の写真も展示されていた。
白い壁に取り囲まれた、中心の螺旋階段をみているうちに
うずまきのなかに潜り込んでしまったような
ふわっとつつまれたような 安堵感を覚えた。

野口さんの写真の前に立つと、いつもじぶんがそこに
もどっていきたかった場所のように感じてしまう。
忘れられていた場所に邂逅したような気持ちになるのだ。
ひとつの建築物にすぎないというのに。

せつなくて、あたたかくて、なにごともなかったかのような
飄々とした風情をときにかもしだしている、灯台の光。
ギャラリーをあとにして、雨のふりそうなくぐもった空の
下にいても残像のように光を感じる。

海を照らす光が、一瞬こころに灯されたような
たしかな輪郭で、夕暮れ時の灯台から
ひとすじ宙にむかって放たれていた。

       
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