その二七七

 

 

    ぬ




 







 










 























 

とりかえっこ してみませんか まんげつの夜

風にまぎれてゆく音だとか。
輪郭線をなくしてしまうほど、あたりに
なじんでるだとか。
いくつものものたちがたちまちとけてゆく
現象にどきどきする。

この間も84歳のピアニスト、チッコリーニさんが
おっしゃっていた言葉に、たちどまりたくなった。

<芸術作品に深く潜れば潜るほど、作曲家も
なにもかも消えてゆくような気がした。人間から
うまれたはずの芸術から人の気配がしなくなる>

おおきな電気屋さんのてっぺんあたりに
できたあたらしい本屋さんを覗く。

顔をこっちに見せながら本棚に立っている本。
少年のような赤ずきんと狼が、夢のようにすれちがう
絵が描かれた一冊を手に取る。
手に取ったまま、本棚にもどさずに胸のあたりに
抱えて、待ち合わせの時間も近づいていたので
レジに急いだ。

好きな本に出会うと、うそのようにこんなふうに
胸に抱えたくなるものなんだなって思う。

家に帰って、母も眠った後にひとりでページをめくる。
『ぼくの宝物絵本』。
穂村弘さんがこつこつと集め続けた、だいすきな
絵本についてのエッセイが、ぜいたくに
ちりばめられている。

絵本の世界を穂村さんのフィルターを通して語られると、
そもそも日常っていつ頃からじぶんにまとわりつくように
なんだったんだろうって思う。
<ふつうじゃない>と<ふつう>のはざまをすれすれの
ところで泳いでいる気持ちになって、こころがむきだしの
まま、あらわになってゆく感じなのだ。

決して、やさしくてふわふわの世界ばかりが絵本の
中に展開されているわけじゃないし、孤独だったり
すぐそばに死がちかづいていたり、やっかいな人達と
であわなければいけなかったり、生きてるってやるせない
とかって思わされたりするのだけれど。

でも、その世界のなりたちをテキストの行間や見開きの
絵の色やかたちの中にまぎれこんで後ろ手に手を組んで
ゆっくり歩きながら、ほらここはこういうことなんですよって、
やわらかく解説してくれる穂村さんの声を聞いているような
気持ちがしてくる。

あたりまえに本棚にあったちいさい頃の絵本は、いるのに
いないってかんじの存在だったけれど、いまの年齢に
なってみると、なんていうか子供の頃よりも、
もっともっと心の底からほんとうに欲してるじぶんに気づく。

いなくなったらこまる人を思い浮かべるように、
思いをはせてしまうそんなジャンルだとおもう。

今となると、未来に近いとさえ錯覚してしまいそうな子供時代。
たとえば祖父に愛されていた記憶にみちていたこどもだった頃が、
絵本の中ににじんでるように感じられて、ふうっとページの
あわいに逃げ込んでみたくなる。

いつかどこかがいまここにあることを、教えてくれる
そんな至福の一冊『ぼくの宝物絵本』に出会えて、
春のくよくよも、カーテンのゆらぎの奥へ奥へと
まぎれてゆきそうな、気配を感じて。

       
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