その二八四

 

 






 







 













 























 

ちってゆく さびしさに似た 雲のかけらが

この間、ベンチでひとを待っていた時に
買ったばかりの新しい雑誌を開いて読んでいた。

目の前はエスカレーターののぼり部分が半分だけ
みえている。
買い物のお客さんたちの、のりはじめは確認できる
けれど、そのさきはいつも途切れて見えなく
なる。

デパ地下だったから、いろんなおいしそうな
匂いのゆうわくに負けそうになって
ひとをまっていたことなんて忘れてしまって
そこいら辺りをふらふらと散策したくなる。
よるごはんのことなど考えながら。

骨董を趣味にされている方の文章を読む。
わたしには遠い世界なので、いつでもそこに
記されているあたらしい情報を得るようにしてしか
その方の文章になじめないのだけれど。

でも素人のわたしにでもとても惹かれる
引用があったりして、思いがけない詩のフレーズに
であうように、楽しんでいた。

あらゆるにぎやかな音が、ざわめいている場所で
文字を追っていたそんなとき。
筆者の方が、長年の友人である方に、生きているうちに
形見分けしたという盃のことが綴られていた。

生きているうちに形見分けしたという文章に
出会った時、そういう振る舞いをされた
似た方を知っていたせいか、ひともじずつに
邂逅している気持ちに駆られた。

なんどもなんども繰り返しよんだときに、
なんだかそこだけぽっかりと闇夜にうかんでいる、
かすかなひかりをみたような気持ちになって、
ふかくにも
なきそうになったのだ。
でもすんでのところでなみだのつぶは落とさなかった。

理由はじぶんでもわかっているけれど、あえて
ほりさげないことにして、本をぱたんと閉じた。

こういうときの気持ちを、そういえばつい
最近なにかで読んだような気がして
まだまちあわせのひとが来ませんようにって
思いながら、あたまのなかでページのようなものを
めくる。

あるこどもが、泣きそうになっていて
そんな状態のときに「泣きたい」って言ったのではなくて
「涙がしたい」と言うのを聞いたことがあるって
フェルナンド・ペソアという詩人が綴っている
文章だったと思う。

「涙がしたい」ってこどもが言ったって読んだ時には、
そんなこまっしゃくれたこどもはいやだな、
ちゃんと泣きたいって言えばいいじゃないって
いじわるな感想を持った。
でも、くやしいかなそのニュアンスは、雲のように
こっちの気持ちの中でゆれているし
すこし衝撃をもって伝わってきたので
憶えていた。

そんなことは忘れていたはずだったのに。
ふいうちをくらった。
その日、実感をともなってわたしのところに
やってきたのだ。

エスカレーターはあいかわらず同じリズムでひとを
はこんで、とちゅうから見えなくなってしまう運動を
繰り返していた。
運んでいるだけなのに、さようならをくりかえす
機器のようだった。

閉じた雑誌から、さっきよんだばかりの文章が
いまもゆっくりとはみだしているみたいで、
きゅうっと、わけのわからない気配を感じる。
たぶんそういうことなのかもしれないと思いつつ
みとめてしまう。

「なみだがしたい」
ほんとうに。
「なみだがしたい」
わけもなく。

       
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