その三〇三

 

 






 








 























 























 

はらはらと リラおちてゆく くるぶしかすめて

古いファイルを整理していた。
昔旅行した時に美術館でもらったパンフやカフェの
コースターやナプキン。飛行機のチケットにまぎれて、
いろんな場所に折り目のついたすこしくたくたの
1000リラ紙幣が、でてきた。

もう二十年も昔に、ちょっとしたごほうびで副賞の
イタリア旅行に行った時の記憶の欠片として、
どうしてその一枚だけをはさんでおいたんだろうと
しげしげと眺めていた。

ふさふさに蓄えたあご髭につつまれたマルコポーロの
写真の刷られた顔の視線は、なにかをみつめているような
すこしばかり所在なげな風情。
ふと、その行方をみつめていたら、紙幣の余白の部分に
文字が描かれていた。

よくみていたら、そこには誰か異国の人が書いたらしい
イタリア語のメモのようなものが、青いボールペンで
5行ぐらい綴られていた。

日本人じゃないひとが書いたとわかる癖のあるCやAやRの
文字。
かろうじて、サンアントニオと読める文字が手がかりかなって
思ったのだけれど、まだあやふやでその5行はいまだもって
なぞだ。

なんてことはないことかもしれないけれど、この一枚を
見つけた時、すこしばかりどきどきした。
そして、いちばん気に入った場所。アッシジの
サン・フランチェスコ聖堂の小鳥に説教する
フランチェスコのフレスコ画をずっと見上げていたことを
思い出したりした。
ずっと忘れていたのだから、それはなにもなかったことと
同じなのだけれど、それでも、こんなに時間が経って
しまってから出会ったことは、ちょっとばかり符合の
片割れをみつけてしまったようなですてぃにーめいた
ものを一瞬感じたりもした。

そういえば、今はもうとっくにリラじゃなくって。
ユーロなんだなって思うと、なおさらこの一枚が、
とってもだいじなものにおもえてくる。

ひとつだけ、不思議だったことがある。
これがわたしの手元にまわってきたのがいつだったのかも
気づかなかったけれど、これを書き付けたひとは、どうして
手放してしまったんだろうってことだけが、疑問だった。

誰かの手に渡ってしまうことを面白がって、ボールペンを
走らせたのか。それともなにか、忘れちゃいけないような記憶を
見知らぬ誰かと共有したくて旅の途中を綴ったのかなって思う。

この間やっていた映画セレンディピティでも同じような
エピソードが偶然でていたせいなのか、そこにみえない物語を
くっつけてしまいたくなっていた。

他愛のないことの文字のつらなりなのかもしれないのだから、
しらないままにしておきたいような、しりたいような。

ほんとうはふたたびイタリアにゆきたくて。
もっというといつかは向こうで暮らしたくて、
今はそのことを遠い夢のように抱きながら、
この記憶のかけらを、新しいおさいふの中で
眠らせることにした。

       
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