その三〇六

 

 





 





 

























 























 

残響は 明け方ちかく ことばになって

ことばはいつも身体のどのあたりから
生まれて来るのかわからない。

路地裏の猫が歩いているようなアスファルト
あたりに、もし文字が落ちていたらとりあえず
拾うだろう。

そのままコートのポケットの中にすんと入れて
また歩き出す。
昔、子供の頃に友達のお母さんからもらった
キャンディをその場で食べられなくて、とりあえず
ポケットに入れたときのように。

例えば、ぴちゃぴちゃにひしゃげた青と白の
しまもようのてらてらの包み紙が、
いつまでも忘れられないようなところがあって。

そのぐちゃぐちゃになってしまった飴玉が残像として、
そこに居座り続けることが、もしかしたらじぶんに
とってのことばなのかもしれない。

とつぜん、そんなことを思ったのは、この間
いつもの本屋さんで
穂村弘さんの「短歌の友人」が文庫になったのを
見つけて、
高橋源一郎さんの解説をその場で読み終えた後、
すこし落ち込んでいたせいか、じかにあたたかいものに
触れたような気がしたすぐ後のことだった。

短歌という詩の形が、こんなにも身近によりそって
いたことにあらあためて気づかされて。
身近っていうよりも、もっとすれすれの身体そのもの
だったのかもしれないと。
だからことばだけが、一人歩きすることはなく、
いつもいついつまでも、短歌の歩調とわたしじしんは
影のようにそのなかについてまわるものなのだと。

おだやかな愕然と、得体の知れぬ覚悟が
立ちすくみながら、ページをめくっていたわたしの
まわりを取りまいていた、ついいましがたの書店での
時間が甦ってくる。

あまり声高く言えないけれど、短歌をつくっていて
なにかが削られてゆくっていう感覚に陥ったことが
あった。
いちにちいちにち、ことばが歌が生まれるたびに
じぶんのなにか、おおげさかもしれないけれど
いのちに似たものが、刮げとられていっているような。
やっかいなものを好きになってしまった。
歌ってこわいんだなとも思ったし、こんなにも
とりつかれていたことに驚いて、もしかしたら唯一
わたしが依存している存在を目の当たりにして
軽い後じさりの思いに駆られた。

誰かの短歌もよんだときの鮮やかさが、一瞬にして
輪郭をあらわにする。
しばらく忘れていても、今日出会ってたちまち
打ち解けてしまった人のように、受け入れてくれる。
この場所に、拒まれていないことの安堵感も手伝って
こころのなかがあたらしい空気にリセットしてくれる
作用をもたらしてくれる。

第一歌集「ゼロ・ゼロ・ゼロ」のいくつかの歌について
穂村弘さんが、論じてくださっている
「短歌の友人」(河出文庫)。
穂村さんが綴ることばに触れた時、わたしの歌はやっと
あたらしい酸素を手に入れたかのように呼吸しはじめることを、
知って、しばらくは幸福にまみれていた時間が流れた事を
思い出す。

酒折連歌とは、ちがったアングルでつくった短歌ばかり
ですが、もし興味をもたれたかたはぜひ、ページを
めくってみてくださいね。

商店街の看板に添えられたことば。<にぶんのいちあります>
が、気になって。
遠い所でなっている、枝の先にぶらさがったままのひとつの
林檎を背伸びしてもぐ代わりに、それをわたしは
拾って、コートのポケットに入れた。

       
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