その三一〇

 

 





 






 





























 























 

葉桜の らせんのかたち 祈りのかたちと

ちゃんと立ち止まりたいなって思っていた。
めくるめく情報にいつもいつも小走りでついて
いってもなかなかおいつかないそんな
毎日だから。
いま、足りないのは、こころのなかの深呼吸の
ような気がして。

そんな時、録画しておいた美術番組をなにげなく見ていた。
今まではそんなに気にしなかった画家、デューラーのことが
紹介されていた。
姜尚中さんがドイツを旅しながら、かつて観た彼の絵に対する
思いと現在の想いなどを比較しながら静かに語って
いらっしゃった。

キリストのように模した画家本人の肖像画の瞳をみていると
どんどん吸い込まれていく。
その運動めいたエネルギーに、すいとられてゆくことに、
抗う気持ちもなくそのままなすすべもないことが、
いちばんの薬のような気がしてくる、
不思議な正面の肖像画。

ドイツの南に位置するニュルンベルグの町をカメラの視線の
ままに見下ろしていると、ほんとうにそこに中世が息づいて
入る感じがしてくる。

デューラーハウスとよばれる彼がかつて住んでいた
リビングの窓のデザインは、壁という壁がたくさんまるく
切りとられている。そしてそのかたちは、なにかねばりけの
ある液体で円を描くときに似て、うまく円のかたちに
たどりつけるまでの、いくつもの円周未満な線をそこに
残したまま、磨りガラスが嵌め込まれていた。
のぞくとすぐ下の広場がにじんでみえるらしくて、
その視覚の遊び方が面白いなって思った。

そんなふうに油断していた時、番組のおしまいあたりで
印象的な一枚の版画が映された。
聖母の戴冠といういまは消失してしまった作品の一部を
再現したものだった。

<祈りをささげる手>。
ひとりの人が祈る時の手だけがクローズアップされている。
手の甲の血管や爪、袖口の折り返し。
右手の小指から下にのびるあたり、左手とは触れ合って
いなくて、隙間がある。
そして右手の小指はすこし曲がった、表情にみちた
祈る指のかたち。

手のひらと手のひらがこしらえるささやかなすきまが、
手首あたりに空間をつくっている。
顔の表情があるわけでもないのにその両の手から
誰かの声がこぼれてくるような、一枚だった。
ありとあらゆる想いが、かさねた手のひらの形のなかに
つつみこまれていた。

いま日本がこんな状態だからなのか、わたしの気持ちの
せいなのか。
<祈りをささげる手>は、とてもわたしの中に
響いてくるものがあって。
それは言葉を越えて、すべてがじかにこころに
触れられているようなそんな思いに駆られた。

地の上にまみれつつも、天から俯瞰するような想いも
からませながら。
あざやかな未来があまり描けないそんな日々だけれど
祈りのかたちがこんなに美しいものだと教えてくれた
一枚に出会えてよかったなって思う。


追伸:
今年のはじまりにこのうたたね日記がこの3月で
おしまいですとお知らせしましたが、
山梨学院大学の酒折連歌賞事務局のあたたかいお心遣いをいただき、
この後も続いて連載させていただくことになりました。
もしおてすきの折りなどにちらっとお立寄いただけたら幸いです。
今後ともどうぞもりまりこのうたたね日記をよろしく
お願い申し上げます  

もりまりこ

       
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