その三一二

 

 






 






 































 























 

セロ弾きの ゴーシュのように 眠りを待って

みんながざわざわって客席がざわつきはじめて
曲が始まると、とても静かになって。
ひたひたとしーんとして。
曲が終わって最後の音符を引き終えて余韻が
ほんとうのおしまいを迎える頃に、彼らは
まるでサッカーで自国チームがゴールを
決めたかのような、はじけたもりあがりを
みせるんですよ。

インタビューでそう話していた坂本龍一のピアノ
bibo no aozora を聴いていた。

イントロが始まると、わたしのこころも
ざわざわしてくる。
音の階段をすこしずつ上ってゆく感じが
じわじわとしてくる。
イタリアの人たちの耳やからだにどんな作用を
もたらしているのか計りかねるけれど、でも 、
彼らがことばのない音のつらなりに感じている
かけらほどのなにかを共に受け止めているような
そんな気持ちに一瞬なった。
と、記しつつそれを感じているのは今の気持ちで
ほんとうに音に耳がふれたときには、そんな余裕は
なかったのかもしれない。

どんなにやさしい曲だったとしても、やっぱりそこで
音がなり始めると、半ば暴力的に耳からどこかしらへ
伝わって、瞬時に涙腺辺りまで結ばれてゆく。

おとずれ。むこうからなにかが運ばれてくる。
音づれ。音がつれてくる。
「耳こそが最初の世界観をもつにいたる」という文章を
読んだ時から、とても気になっていたけれど。
そのことばを体現したような感覚にさっき陥った。

だれかのゆびで震わせたり響かせたり。
あてもないけれど、ちゃんとおしまいがくる予感も
はらませながら。

余韻が耳におとずれるとき。余韻のいちばんさいごの
ぴりおどをうつときのしずかな音まで聴いてしまって。
あたりのしずけさは、さっきまで聴いていた曲が
連れてきたものなのだと、しみしみする。
きもちが順々におりたたまれてゆくかんじって
じぶんでもよくわからないけれど。
たぶんなにかのおとづれをまっていたのだなって
ことだけは、たしかなことのようだった。

       
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