その三二〇

 

 






 







 



































 























 

つかのまが つみかさなっている いのりのかたち

いまここにいるということは。
わからないなにかにあやつられていたのかも
しれない。
けれども、いまここにいるということは
ちいさな一歩があったからなんだなって
気づかせてくれる、映像体験をした。

先日、NHKのBSで「アンデス 星と雪の巡礼」
という番組を見た。
カメラマンでジャーナリストの桃井和馬さんが、
クスコの東4800メートルにある聖地、コイヨリティーを
目指して巡礼の旅に出るドキュメンタリーだった。
標高6384メートルのアウサンガテ望む
星と雪の巡礼と言う意味を携えたコイヨリティー。
ここから5400メートルの氷河の上に巡礼者達が
それぞれの十字架を立てるというインカ時代から
続くキリスト教の儀式を終える迄の道のりに
いつのまにか釘付けになっていた。

同じ巡礼に臨むケロ族のルシオさんと共に聖地を目指す。
巡礼には白い石を携えることがならわしらしく、ルシオさんが
桃井さんにと探してくれたちいさな白い石をかばんにつめて
共に歩き出す。

桃井さんは4年前なくされた最愛の奥様の突然の死と
むきあうように、大地に一歩一歩を刻んでゆく。
前をあるく遠い村からの巡礼者達は、太鼓みたいな
楽器を打ち鳴らしながら進む。
桃井さんが重たくなりかけた足を止まらせることなく
その音をみちしるべにしながら歩いてゆく姿は、わたしの
こころとからだに、くさびを打たれているような感覚に
陥った。

旅をはじめるにあたって、馬にも乗らないでじぶんの足で
歩いてゆくこと、身体を駆使することを桃井さんは選択する。
それがどれほどに苦しいものなのか映像を通して
伝わって来るのがわかるほどで。
気がつくとこちらの呼吸までが酸素をほしがっているような
しめつけられる思いに駆られた。  

  <巡礼。祈る旅。己を追い込む必要がある。息途切れる
  領域まで。一歩一歩一歩一歩臓腑より祈りをしぼりだしたい>
これは番組の中で紹介されていた、旅の途中の桃井さんの日記の
ことば。

巡礼。
あの地震があるまでは、あまりそのことばはどこか遠くに
あるようで、しっくり来なかったけれど。
聖地でみつめる日の出を体感していたら、この旅は
まぎれもなく桃井さんの巡礼なのに、みえない何かにずっと
救われ続けているような気持ちが、通奏低音のように
じぶんのなかに流れ続けていることに気づいた。

一歩ずつ歩むことと巡礼することがそこでかちりと
腑に落ちて。
過去からいまここにじぶんがあることが、その一歩一歩の
つらなりであることに、奇跡を思う。
夜の闇だけの空間にかがやく星々も、その遠くの瞬きの
意味さえも脱いでしまえるような一瞬がそこにはあった。
祈ること。深遠すぎて、輪郭さえ指にふれることは
できないけれど、たぶんからだにいちばん近い場所に
いつもそんざいしているもののような気がして
ならなかった。

       
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