その三二三

 

 






 







 


































 























 

涼しいに さびしいって るびをふるよる

そこにあったものが、ちがうかたちにかわってる。
かわるまえの、ほんのいっしゅんのムのような
じかんを経て、うまれかわる。

いつも見慣れていた無印良品の下の、花屋さんが
いつのまにかからっぽになって、しばらくして
バス通りから眺めていたら、自転車屋さんに
変わっていた。

あたらしいものに、食指があまりうごかない質なので
いつまでもあのフラワーショップだったころの
その場所に思いを馳せてしまいたくなる。

エントランスを入ると、左手にある衣料などの
フロアから右手の花屋へと、歩いてゆくと
すこし寒いぐらいの澄み切った空気がひんやりと
からだに伝わってくる。

いつもそうだったけれど、そこに足を踏み入れると
生きている花達のすずしい青い匂いと、はりつめた
ような風を感じた。

花の持っている表の顔のかわいらしさやあいらしさや
うつくしさとはまた別の、なにかきびしさを携えた
あえてことばにしてしまうと、気のようなものを
切り花たちが発していたのかもしれない。

土の中で生きていたいのちが、いちど死んで、
限られた命を生きるという、切り花の宿命のような
ものの凄みに、正直いうといつも気圧されていた。

いまいきているいのちのちからに圧倒され続けて
花束を手にしているころには、ジャブを受け続けた
にぶいいたみが、効いてくる。
花屋をあとにするころには、へなへなと快く負けて
しまった感覚におそわれた。

でも、なくなってしまうと、やはりつかのま
さびしいもので。
あの場所に凛とすわっていた、葉や花や茎たちは
どこにいってしまったんだろうと思ったりした。
天があって地があって、そのまんなかに人がいるように
まぼろしの花の形を思い描く。
あんなに負け続けていたはずなのに、いまは
ふしぎと花の色もたたずまいも、おだやかにここに
響いて来る感じがする。

11月は、わたしにとってもあたらしくなにかを
迎える準備の季節だった。
1999年から昔から使っていたiMacを捨てたり、
古い服や本をしまつしたり、あと、長い間通っていた
書道教室も卒業することにしたり。

何かを手放す事はたぶんじゆうになることだし
そのじゆうはすこしさびしいくらい風通しが
いいものだと思う。
その風通しのよさは、なんとなくあの花屋さんの
入り口あたりから漂っていた、涼しい風のもつ
輪郭と似ているような気がして、ますます
こころのなかで、背筋が伸びる思いしきり。

       
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