その三二六

 

 






 






 






































 

つなぐ手に いのちのかけら じわりこぼれて

はじまりとおわり。おわりのはじまり。
いつもなら、大晦日の慌ただしさからふと、おせち料理を
つくる手を止めて、<ゆくとしくるとし>に耳を傾けながら、
カウントダウンにゆるやかに、なだれこんでくるせつな
あぁことしも終わるんだなってきもちが、しぜんに芽生えて
いたような気がする。

あけましておめでとうございます。と母とあいさつを
かわしながらも、なんだかまだ気持ちの中に
2011年の12月31日 32日目を
生きている気がしてならならかった。

to be continued.
ほんとうは、なにかがきっちりとおわって
なにもなかったかのように、なにかがはじまるなんてことは
ありえないのかもしれないけれど。

甘い錯覚にずいぶん長い間、巻かれていたのだなと
思いつつ。
ふいに思い出してしまったギリシャ映画「霧の中の風景」
の1シーンがあった。

ブーラとアレクサンドロスという名のふたりの幼い姉と弟が
何度目かの試みの後、夜汽車に飛び乗って家出する。
ふたりがまだであったことのない、父親をドイツまで
探しに出かけるために。

なんども連れ戻されそうになったり、隠れかくれながら
探し続ける中。父親の存在の輪郭が垣間見えるような
そんな希望のひかりは、どこにもみえないままなのに
あらゆる風景のなかに、救われる一瞬がある。

記憶がおぼろげなので、失念してしまっているかもしれない。
そのシーンの中に、がらくた箱の中から拾った、
ぺらぺらのフィルムが出てくる。

旅の途中で出会った若い男の人が、曇ったフィルムを
陽にかざしながら、一本の樹が湖のそばで
すっくと立ち尽くす写真がそこに、映し出されて
いるかのように、弟に語りかける。

むくなちいさな彼は、うそとほんとのはざまで
どことなく、そこに映っていない世界をどこかで
信じている風情で耳を傾ける。

他愛のない誰もが大事なものとは思わずに
捨てられていたフィルムなのに、エンディングまで
見続けると、それはその話の中のキーワードに
なっていることに気づく。

なんだろう。あきらかになにも映っていないもやが
かかったようなフィルムのむこうがわに、ほんとうは
映っていたかもしれない、景色をどこかで信じ続けることが、
ひとがあしたも歩いていこうという原動力に
なるのかもしれないと、ふしぎと思えてしまう。

旅のおわりちかくで、父に出会えそうな気配は
どこにも兆さないので、彼らの足取りは
重くなりかけていたさいごのさいごで
ふたりは、ある風景と邂逅する。
疲れ果てた身体から一瞬、すべての重たいものが
解き放たれてかろやかに走り出す。
旅の途中でであった、男の人がみていた
あの風景と同じ景色が目の前に広がっている。

どこまでいっても、父のみつからない日々を重ねるように、
まだみえない風景に思いを馳せながら、おぼつかない
身体とこころでいきてゆく。
そんな姉と弟のふたりが、なぜかしらいまのいまつよく、
記憶の輪郭を刺激するようにこちらに刺さってくる
思いがする。

2012年は、すこしでもみなさまにとって
こころすこやかな日々が続きますように・・・。
もりまりこのうたたね日記。
気が向かれた折りにでも、ちらっとおたちより
いただけましたら幸いです。
どうぞ、今年もすえながくよろしくお願い致します。

       
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