その三三四
 

 

 













 


















 

もぎたての みじかいことば 放たれてゆく

まるくてぽってりぼってりとした蜂蜜の壜。
宅急便で届いたその贈り物が包まれていた
新聞紙。

少しくちゃくちゃだったけれど、しわをのばせば
まだ読めそうだなって思って、破らないように
指で伸ばす。

和歌山地方の地域の記事などを目にしながら、
遠い場所でのさまざまな人々の営みが、文字から
伝わってくる。
いつも馴染んだ新聞とちがって、こうしてはじめて
眺める新聞は、なんだか何かを遠くから眺めている、
旅行客のような気分になってしまう。

ふと文化欄のページにたどりつく。
すこしだけさっきの指がとまって。
ふたりのヨーロッパ詩人のことが紹介されていた。
ひとりはスウェーデンのトーマス・トランストロンメル氏。

<蘭の花の窓/すべり過ぎ行く油槽船/月の満ちる夜>

まなざしの3つの行方が、ふいに目の前から漂いながら
空へと昇華してゆく感じに、くらくらする。

病の為に言葉を失ってから彼は短詩型に惹かれていったらしい。
俳句のように短い言葉の中に現在も永遠も内包されているその
詩の世界に、触れていることのふしぎ。

もうひとりは。フランシス・ジャムというフランスの詩人。
『四行詩集』を50代半ばに四冊も出したと記事に書かれていた。

<絹の空が/水を青く染める/犬が/丘で吠えている>

ジャムの青春期は北斎や浮世絵などが広まっていった
19世紀後半のジャポニスムの中にあって。
その詩の形は「唐詩の影響」もあるらしいのだけれど。
彼の作品をこのシンプルさは数えきれない多くの経験の結果で
あると評した芸術家の言葉も紹介されていた。

彼らふたりの詩の中に共通する、しっかりと踏みしめられた
音楽性。
トランストロンメル氏はピアノを奏でるらしいし、ジャム氏は
「ピレネー山脈のふもとで釣りや狩猟を趣味とし」
日常の暮らしの中で視覚だけでなく、自然の声をききとることが
培われたらしい。

今までだって変わらずに、わたしの側には自然が
あったはずなのに。ここにきて、こんなふうに
自然がおそろしく自由に、一読すると、関わりのないもの
どうしが隣り合っている詩の形に出会うと、
それは、忘れていだけでいつもそこにいたことに気づかされる。
つよさと頼もしさと
畏怖にみちている自然の生々しさ。

日本の西からやってきた新聞と、はてしなく遠いはずの
ヨーロッパの詩人が奏でる言葉が、じぶんの住む
ささやかなこの空間で、ふいにひとつの
環のつなぎめをつないで、こころのなかで閉じてゆく。

新聞から目をあげると、荷物を解いた散らかったフローリング。
リビングのテーブルの上の、壜の中の黄金色のはちみつは
とつぜん夕日を連れて来たみたいな、風情でそこにいた。


       
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