その三三七
 

 

 





 





 


















 

灯火が からっぽ照らす 羽づくろいして

けむくじゃらの生き物と暮らさなくなると
犬や猫やその他の動物たちは、ずいぶんと
遠くに感じられる。

映像でみかける彼らの生態は、視覚を楽しませたり
刺激してくれるけれど、その体温を感じられない限り
やっぱりひそやかにさらっとしている。

猫とくらしていたときの、体温の温もりは少し肌寒い時
などにとてつもなくなつかしくなって、いまここに
いてくれたらなってほんのつかのま甘えた気分に陥り
そうになる。

でも、なんだかいまここには生きていないのに、ちょっと
こころひかれる想いで見入ってしまう、託された生き物を
みつけてしまった。

とある方から頂いたポストカード。
お目にかかったことはない方のそこに万年筆で綴られた
あたたかい文章。
穏やかな気持ちに誘われてふと裏返してみるとその写真には、
灰色とうす青い霧がかかったような背景の色の中に一羽の
鶴に見立てた香合の写真が映っていた。

1620年から1640年代の古伊万里の染付らしく。
その鶴の姿のひっそりとしたたたずまいから目が
離せなくなった。

誰かにみられているとも思わずに、折り畳むように
首を傾げて羽づくろいしているかたちは、
うつくしくて、さびしい。

鶴を象ったものであることは、承知しているのに、
たぶんその肌の冷たさに触れる前に、くちばしが
ふれている羽根の感触を想像してみたり。
もしかしたらどこかから、渡りを終えたあとの
しぐさなのかもしれないと思ってみたり。

わたしが鶴について知っている事は、
飛ぶ能力をおおいに発揮するために鳥の頭脳は
遠慮してそちらに譲ったのだということや
その声は胸を打つものがなしい響きがあること。

動物園以外でその姿をみたことも、そんなこころに
せまるような声をきいたこともないせいか、
こんなふうに綴りながらも、どこかで後ろめたさを
感じてしまう。

でも、そんなぎぜんてきな気持ちがふいにやわらぐのは
それがほんとうの鶴ではなくて、陶器にいのちを
吹き込まれた、鶴だからなのかもしれない。

むかしからのくせだけれど、こんなふうに陰のあるような
陽の光から遠ざかった場所でいきているような印象の
ものにであうと、たちまちくぎづけになって、
思わずつづってみたくなるくせが、ちいさなころから
抜けていないことに気づく。

飛ぶことに憧れたにんげんは、そこに近づこうとして
こんなふうに舞い降りた一羽の鶴に想いを重ねて、
手やゆびやこころが作り上げてゆく
ものなのかもしれない。

       
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