その三五〇

 

 

 






 






 





















 

降り積もる 雪の呼吸に 寄り添いながら

 とけてゆく。とけてゆかない。とけてゆくとちゅう。
いつまでも残っている雪を車窓からながめながら、
思いが巡る。

 からだではなくて、どこかがほぐれていないなって感じるときの、あの茫洋とした不確かさに包まれて。
 なにかがなにかに抗ってるんだなって思う。

 多分そういう時の呼吸は、短くなっているんだろう。
酸素がいつもすこしだけ足りないような、そんな感覚。
 なにかがうまく運んでいるときはきっと、長い呼吸を
しているのかもしれない。

 池澤夏樹さんの<同心円の世界図>の切り抜きの随筆を
座席でよんでいた。
 <眠っている間、失神している間は世界は存在しないに
等しい。>
 あたりまえのことなのに、あらためてそうなのだと思いつつも、からだのことについて無防備であった自分に気づく。

 大阪に住んでいた頃、舞踊のライブを見に行っていた時のことを思い出した。
 まだ開演前のロビーに舞踊グループの一団が、わたしたちのまわりを、長い手足を巧みに揺らしながら不可思議なリズムで縫うようにして静かに去って行った。
 座席に着く前からもうすでに上演は始まっていますよって感じもしたし、からだで発することのできる表現は目覚めている間は常に、進行形で営み続けているのだとそんな風にも思った。
 そして少しだけ日常の裂け目から何かを垣間みたようで
わくわくした。

 その時、じぶんにも同じからだが備わっているはずなのに彼らのからだは、ほんとうに生身のいきいきとしたからだなんだなぁと、他者のからだを通してじぶんのからだにはじめてぼんやりと行き着いたような不思議な感覚に包まれた。

 手の仕草のきれいな人や足運びの穏やかな人。
だれか知らない人の思いがけないからだの動きには、時折
目を奪われてしまうことがあるななんて思ってたら、大好きな写真家の荒木経惟さんの言葉に出会った。
<手を振るという動きの中には「こんにちは」と「さよなら」の両方が入ってるからなぁ>
 荒木さんが亡くなった写真家の東松照明さんとの思い出を語る記事の中でみつけた。東松さんの個展会場を去る時にいつまでも彼が手を振っていてくれたと、追憶している最後の荒木さんのこの言葉に打ちのめされてしまった。

 ほんとうとうそのあいだを、ゆらめこうかなって思っていたはずだったのに、このことばに出会って。
 まぎれもないほんとうにつらぬかれたみたいで、胸の高鳴りが幻聴のように聞こえていた。


       
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