その三六一

 

 

 






 







 



























 

いつまでも かわたれどきの 雨を含んで

 じぐそーぱずるのような。いろいろなかけらが
地面に散らばって。あじさいが咲く前の緑の匂いの
なかに紛れ込む。

 むかしむかし、じぐそーぱずるは、解体地図だったと
知って、たくさんの国がいまあるべきところではなくて
思い思いの場所に存在しようとしているところを
想像してしまう。

 ここじゃなくて、あっちだったり、むこうのものが
すこしずれてとなりにすわって、そのまま反転して
どこかとおくへ風にふかれて、着地したところが
妙におさまりがよくて、そこを居場所にしようとしたり。

 好きなPR誌のうしろのほうのページにはいつも
いろんな国のひとたちの、とあるいちにちの午後三時の
日記が翻訳されて綴られている。

 一月は、ボスポラス海峡に面した茶館でまどろむベルリン生まれの文筆家の午後三時。
 二月は、ローマのナヴォーナ広場を散策する児童文学作家の午後三時。
 三月は、雨模様のボゴタ。アンデス山脈のふもとでパソコンの画面と窓の向こうの雨で、着想が浮かばないと格闘しているコロンビア生まれの作家の午後三時。。

 あたりまえのことなのに、世界のいろんな人達がそれぞれの国で午後三時を暮らしていることが、はじめて聞いた異国の楽器にふれたときの、ざらざらとした手触りに似て、どきどきする。

 そして、こことはちがう場所へのあこがれがとたんに
すくすくとこころのどこかで育ってゆく。
 やさしく育つというよりは巣食うに近い感覚。
 世界ってって自問して、なにかが渦巻いてゆく。
 知れば知るほど、しあわせもふしあわせも、あまたのたたかいも、ひとしずくのへいわもいつもどこかで同時に起こっていることに愕然とする。

 でたらめの世界地図を描く。
 あてはまらないところにあてはめながら、さいごの1ピースをてのひらに隠したままで。

 失われた物をみつけようとして、失っていなかったもの
まで失わないようにと、とある異国のひとの占いに忠告を
受けたけれど、失われた物は、時間が経つと甘美の魔法が
かかっているものだから、ついつい探しに行きたくなる。

 今日の午後三時。
 とうに過ぎてしまったけれど。かつてになってしまった
秒の重なりにずっと身をゆだねている、いま。

 海の見える場所。山に囲まれた村。川の側で。
 洞窟みたいな住居や教会の中で。移動する車の中。
 傘の中や屋根の上で。
 ありとあらゆる場所で過ごしたに違いない時間がよぎる。
 あしたはまたばらばらの、かけらになってしまえる
ささやかな自由を手に入れたどこかのくにを夢想しながら。


       
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