その三六二

 

 

 






 






 


























 

真夜中に すれちがってゆく 二匹の犬が

 梅雨に入ってもあまり雨のふらなかった8日の夜。
 眠れないまま、ぼんやりと「あるいは裏切りという名の犬」というフランス映画をみていた。
 元警察官だったオリヴィエ・マルシャル監督の実話だそうで。
 その映画の中には、雨の降る前に似た重苦しい空気が流れていた。
 大切なひとを失って、これいじょう何もなくさないように行動する彼を待っていたのは、謀られたなくしてしまった時間だった。

 なくしてしまった時間は、ひとり残された娘の成長を観ることで、その時間の長さにあらためて観客であるこちら側が共有してゆく。
 そんなちょっと梅雨めいた気持ちをひきずりながらみていたら、夜の窓の外でなにか連続した鳴き声が聞こえて来た。

 むかし使っていた電話の呼び出しのベルは鳥の鳴き声の音だったことがあって、そのかつての音にそっくりだったので、どこかの家の電話が鳴っているんだなって思った。
 でもその音が、夜中の十五分置きほどになっては切れて、その繰り返しがなんどもなんども続いた。
 きっと急いで伝えたいことがあるのかもしれない。
 携帯じゃなくて線の繋がってる固定電話に掛けているのはもしかしたら、お年寄りなのかなと映画の不穏な画面を追いながら、そんなことばかり思っていた。

 映画に流れている時間は、こっちの時間の質にまでそっくり伝染してしまうものらしく、その時のわたしのこころの中では、よくない知らせの電話のように聞こえてしまっていた。
 翌日の夜になっても、繰り返し聞こえて来た。
 その日以来、真夜中の電話は2日ばかり、さみだれのように鳴っていた。

 夜中を過ぎた、午前三時頃、ふと眼が覚めた。
 窓の外のどこか近くの林の中で、鳴く鳥の声が聞こえる。
 誰かを呼んでいるようなやさしくて、やわらかい鳴き声。
 その時わたしは、2日間程、かってに錯覚をしていたことにおもむろに気づいた。
 あまりに昔の電話の音に似ていたあの鳥の鳴き声は電話じゃなくて、ほんとうの鳥の鳴き声だったんだと。

 夜になく鳥の声は、いつか詩の中にでてきた
ナイチンゲールぐらしかしらないから、ヨナキウグイスかもしれないとこの際、勝手きままに、ナイチンゲールに
してしまった。
 どんな鳥なんだろうと思っていた鳥が、ひょんなことに
この辺りにも訪れたと思うと、こころおだやかじゃないこころから、縄のようなものがすっとほどけてゆくのがわかった。

 じぶんのたしかなこころは、ほんとうはふたしかだなってことにもきづいたし、眼の前の空気に比例するように
なにものかにとらわれてしまうこともあるんだなと。
 たったそれだけのことだったけど、映画
「あるいは裏切りという名の犬」とナイチンゲールがとなりあわせに並んでいる、不均衡さが妙に心地よかった。



       
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