その三六五

 

 

 





 







 



























 

行き先を 告げないしずく 光を呑んで

 黒いテーブルの上に置かれたグラス。
みずのしずくがグラスの外側にふたしかな円のかたちでくっついている。
 すきとおるむこうがわの景色の色だけが、にじんで。
「スロウ・グラス」と題された本の表紙を思い出して、ちいさな本棚のてっぺんから抜いてきた。

 手に取ってみると記憶のなかの「スロウ・グラス」とはちがって、そのしずくのつぶつぶは、表紙いっぱいに広がっていた。
 記憶って、へいきでほんとうのように嘘をついて、こっちのあたまとこころを掻き乱しては、すっと消えてゆく。

 あらためてその写真を見ていると、この写真のことがすきだったと感じた気分が、ゆっくりと戻ってくる。

 タイトルと目次が始まる前のページにはその写真を撮った畠山直哉さんのことばが記されていて。
 彼の綴る文章は、読む度に惹かれてゆく。
 白い紙に思いついた言葉をそこに書きつけて、また次の人に渡してゆくあの言葉遊び。
 主語や述語、動詞などは決めておくけれど、その紙を広げるまでは、そこにいる誰もがなにが書かれているのかわからないっていう、あのふしぎな遊びのことが綴られていた。

 <この遊びを始めた昔の大人たち>が白い紙に書かれていたことばは、<ル・カダーヴル エクスキ ア・ヴュル・ヴァン・ヌヴォ>。
<妙なる屍は新酒を飲んだ>になるらしく、あの誰もがやったことのある遊びは、<カターヴル・エクスキ、たえなるしかばね>と<怖ろしい名前>がついている。

 紙を広げた時にひとつの文をつなげた時のありえない偶然にみんなで笑ったことはあったけれど、そこにおそろしさをみじんも感じたことは、なかった。
 畠山さんの文章を読みながら、他愛もない遊びにそんな、闇に近いなまえがあったことは、驚きだった。
 でも・・・。もしかしたら、こどもたちの無邪気さのなかには誰もきづかないくらい微量に、こういう邪悪ななにかが、潜んでいるものかもしれないなって、思う。

 白い紙を目の前にして、なにもうかばなかったはずなのになにかことばを知らず知らずのうちに選んでそこに綴る時。そのことばは、いったいどこらへんからやってくるのだろうと思うことがある。
 なにかわからないものに導かれてっていうとあやしいけれど、そうとしか説明できないようなところがことばにはたぶんあって。

 なにかひとつひとつが、ふいをついてつながって、うっすらと意味らしきものを張り付けながらそこにいる時、なぜだかその言葉を選んだのは、わたしではないような気がしてくる。

 ことばは、いつもじぶんのうちにあるのではなくて、おちてくる花びらをおもいがけず受け止める時に似て、たまたま出会って少し引き寄せたくなるものなのかもしれない。


       
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