その三六八

 

 

 






 





 


























 

八月の 残像の花火 すきとおるまで

 八月の暦のいちばんさいごの日を迎えてもなかなか夏が終わりそうな予感を味わえずにいることがうれしいのか、倦んでいっているのかわからずにいた。

 たぶんだけれど。今年は生まれて初めてかもしれないほど、夜空に咲く花火に反応しなかったからかもしれない。
 あんなにすきだった、夏の花火の残響がお腹の底に響いていたのに、夕食の作業の手を止めて二階へと音立てて上がってゆかなかったのはふしぎだった。

 去年までは、北東近くに上がる八月の花火を待ち構えてベランダから覗いては、色鮮やかな火の花びらをみたせつな、その後に現れるスターダストを眼で追いながら安堵したような夏のピリオドを迎えたような気分になっていた。

 あんなにすきだったものに、胸がざわつかなくなるなんてことがあることを、俯瞰していると面白いなって思う。
 少しずつだけれど、じぶんの何かが変化しているみたいで今はその変化がどこへ向かうのかに興味を感じている。

 すきなものは一生すきなものではないし、ぬけがらをぬぐように、どこも痛みを感じないぐらいになるまで脱皮できたとき、そのものごとからちゃんと卒業できたことになるのかもしれない。

 こころの中に感傷という思いが、重く張りついているときそこにはある種の色がまつわりついていて。
 そこから時間を経て、そんなちくちく刺さるような情緒からうまくすり抜けられた時に、こころの色は透明に近くなって行くのかなって思う。

 そんなとらんすぺあれんとな色は、はじめから透き通っている物ではなくて、おびただしいぐらいの想いに彩られたのちの姿なのかもしれないと、想像してみた。

 どこかいちぶぶんが透明になったじぶんのこころのような場所を思い描きながら、もうひとつだけ今年反応しなかった出来事があったことを思い出す。
 花火とずいぶん昔の夏に空の事故でいなくなってしまったすきだった作家は、とても遠い所で手を繋いでいる関係だったのかもしれないなぁなんて思いつつ。

       
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