その三六九

 

 

 






 





 
























 

逃げてゆく 風の中の蜂 わだかまる雲

 居間からみえるちいさな庭は、部屋の中に居るといつも通りだ。
 朝目覚めると、おそろしく美しい花が一輪咲いていたり
みかけない樹木がすっくと立っているなんてことはないけれど。
 でもひとたび、庭にこの足で降りてみて手入れをし始めると、わかることがある。
 わたしたちが、眠っているうちにおびただしいぐらいの生き物たちの営みが、ここでは繰り広げられているのかもしれないと。

 買って来た時に、すぐにでも折れてしまいそうなロウバイの木が、いまはいちばん強くなってすくすくと伸びている。
 垣根の高さを揃えていたら、アシナガバチがやってきて、すこしこわいなって思いながら、作業を止めた時いちばん近い距離まで近づいたその蜂を、はじめて見かける黒地のうつくしい蝶が、蜂をつつくような形で追い払おうとしてくれた。
 蝶にひるんでにげてゆく蜂。じぶんの頭のすぐ上の空中で展開されている。

 見知らぬ人に助けられたときのように、その黒と白の蝶に、困難なことから救われた気持ちになって、また作業にとりかかった。

 いつのまに増えていた雑草を、とって袋につめての繰り返しを何度かしていた。
 すこしさぼっていたせいで、やることがいっぱいでからだまでこんがらがりそうだったその時に、ふとしゃがんだ姿勢から、ロウバイの幹の間になにかがぶらさがっているのがみえた。

 若葉の頃の緑色のうつくしいまるいかたちのものがたしかにそこにある。ロウバイ自身のものではないなにかにおそるおそる近づくと、それは初めて見る緑の蜂の巣だった。
 ちゃんと六角形の連なりがこぢんまりと下がっていた。
 でもなかには蜂の子たちはいなくて、空室だった。
 すぐにでも風に飛ばされてしまいそうなぐらいに軽くて、はかなげな緑の巣。

 蜂の生態はよく知らないけれど、ふつうは樹木の皮などで、巣を作るからうす茶色い色をしているらしい。
たまたま我が家に訪れた蜂は、ふんだんにあった緑の葉をせっせと運んで、巣作りをしたのかもしれない。

 そう思うと、さっき追い払ってもらってほっとしていた
蜂がそれっきりやってこなかったことを思って、少しばかりちくっとした思いがする。
 かつてあった巣を訪れていたのかもしれないなと。

 スーザン・ヒルという英国の作家の言葉を紹介している雑誌を夜、読む。
「恐がりや、慰めのない人や、魂がしぼんでいる人にこそ、庭作りをおすすめしたい」と。
 そのことばを受けて、<種を蒔き、球根を植え、毎日水をあげるのはたしかに未来があると自分に宣言するようなこと>
という文章をみつけて、はっとする。

 いつもは気づかなかったことに気づかせてくれることは
日常のなかではそうそうないことなのに、アングルを少し
変えてその場に身を置くだけで、なにかをすとんと腑に落ちたように感じることがある。
 植物や生き物たちは何かを教えるために存在しているわけじゃないはずなのに、それでもそう感じてしまうのはいまの自分のこころが、とても健全な場所に位置しているようで、安堵する。
 なんだか庭にはひとりずつコロボックルみたいなちいさな心の師のようなひとが、どこかにいるのかもしれないって本気で思いたくなるようななにかがあるようなそんな気がして。

       
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