その三七二

 

 

 






 







 

























 

こころあてに しづこころなく ながめせしまに

 白いTシャツが、どことなく所在なげにそこにあった。
 うたたねしそうになって、揺れているカーテンのすきまを縫う風の冷たさに、ふいに起こされてしまいそうになる。
 この間までが、夏だったことを強烈に思い出すのは次の季節が、ここに届いてしまった時なのかもしれない。

 まえぶれ。おとずれ。ふつふつとわいてきて。
 夏におもいがけなくこぼれた種が、すこしずつ胸のどこかで発芽しそうになっているような、秋。

 みしらぬだれかが、この夏からだやこころに刻んだはかりしれない経験をひしひしと、味わった人がいたかもしれないと、夏を終える度に思ってしまう。

 まったく同じようなことを体感している人がいてもおかしくはないけれど、それはどことなく違っていて、

 ってそう記しながら、<物事が同時に起きないために時間が存在している>っていう、アインシュタインの言葉をドラマの中の主人公である詐欺師の台詞で聞いたことを思い出す。

 でも、ひとはなにかに共感するし、本を読んだり映画をみたりして、ここにいるのはわたしだと思ったりする。
 どうしてなんだろうとおもいつつも、
 他人の行動や思いを自分に重ねてしまうことがある。
 弱っている時は、油断しているとすぐに共感してしまうようなところがあって、これはじぶんにあてはめてみると、よくわかる。

 秋の始まりかけた時、百人一首を英訳したものを勉強を兼ねつつノートに写して、そのとなりに通釈のようなものを綴っていた。

 その時、英語の勉強みたいな感覚はまったく外れてしまって、百人一首そのものの世界にとっぷりとつかってしまっているじぶんを発見した。
 うろたえつつも。しくしくと安堵した。

<あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の>
<もみぢふみわけ なく鹿の>
<いまこむと いひしばかりに 長月の>

 ひたすらまっすぐなこころを、浴びるとそのときのじぶんの心情が、どこかずっぽりとやまとことばの中に埋まってしまったような錯覚に陥って。錯覚のようでそっくりリアルな感覚にたちまち染まってしまった。

 気がつくと、生身のじぶんをちゃんと日々感じることは、たいせつですよと、八世紀から十三世紀を生きたいしにえの貴族であったひとびとにやまとごころを教わっていた。

 と、この件を書きながら映画「グッドモーニング、ベトナム」のDJのナレーションを聞いて、ジェームズブラウンを久々に聞いて、<I GOT YOU>もいいなと思うとりとめのない、秋晴れの午後でした。

       
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