その三七四

 

 

 






 





 
























 

散ってゆく 速さでおもう からだが踊る

 フランシス・ベーコンの絵を見ていたら、忘れがたくなって、たちまち記憶が呼び起こされる気がしてくる。
 記憶とゆびがタイピングしているせつな、どちらかというと思い出したくなかったもやっとしたかたまりが、目の前に現れてきそうで、おちつかない。

 それでも、見続けてしまいたくなる気持ちからは離れがたく、ちょびちょびと絵に触れる。
 よりよい精神のためにいやなことは忘れましょうという
けれど、いやだったことの思いの中には、よかったことよりも莫大なエネルギーが充満していて、それはそれでこころがずれてしまうぐらいの力がある。
 とてつもない負のエネルギーは、とてつもなく人を元気にしてしまう力までもをはらんでいる。。

 正直この11月はそういう意味では、負のエネルギーが
いつも身近にあったような時間を過ごしていた。
 価値観が互いに違うことは理解しながらも、ひとつの解決点にたどりつかなければいけないという目的のため不毛な平行線を歩みつづけなければいけないことと、腑に落ちない妥協点をみつけることのむなしさを味わったりしていた。
 だれにでもこういう思いはあるだろうし、なんとか乗り越えているのだろうけれど。
 じゃあこのもやもやはみんなどうしてるんだろうっていうふだんは通り過ぎているはずの<みんな>という視点に救いを求めようとした時に出会ったのが、フランシス・ベーコンの絵だった。

 フローリングにこぼしたミルクを昨日の夕刊が、ぐんぐんと吸い込むように、ベーコンの絵はわたしのいろんな場所に問いかけてくる。

 その作品を紹介していたのは大好きな舞踊家田中民さん
だったことも手伝って、見入ってしまう。
 第二次世界大戦直後に発表したツイードのコートを背中に羽織ったひとがこうもり傘の陰で叫んでいる絵。
声までもが聞こえてきそうな、ありえないぐらい伸びた首の形とその先につづく開けた口から覗く歯の形。
 その不思議な構成の絵のことも十分気になっているのに、田中さんがベーコンの絵を見ている視線の位置や指の動きからも目が離せなくなって、そのひとつひとつがこころに刺さってくる。

 ベーコンの絵の中のおとこが、田中さんの踊りの中に現われる。
 土にまみれた裸のからだが動き出す。なにかに導かれるように。 
 田中さんがフランシス・ベーコンの絵を踊ってみようと
感じたのは、もう三十年も前のことらしい。
<感じているものは、目にみえないし、見えない所に留まっている。
見えない粒子をみている人に見えてる粒子といっしょに
動きを送り届ける>
 そんなことをおっしゃっていた。
 踊るとはほんとうはそういうことなのかもしれない。
 踊り手と同じ感じ方を観客がすることは、不可能に近くてもなにかを感じたということを、頭のてっぺんや足やゆびの先までも駆使しながら、踊りという波動に乗せて伝えるという、伝達のひとつなのだと、腑に落ちた。

 ベーコンはかつて<神経組織に直接つたわるようなリアリティを表現したい>と言っていたらしい。
 表現者のハシクレとして、それは理想だからこそ、そんな言葉に強く憧れを抱きながら聞いていた。

 最後に田中民さんが価値観という視点を他者にまかせるのか自分の範囲として対峙するのかについて、おっしゃっていた言葉が今のわたしにとっては衝撃的だった。
<ひとりひとりがどういう風に絵を見て、どういう風に絵をみるということがじぶんにとって、どういう大事な事態なのかということ>
 絵をみることが事態だという受け止め方。あたらしい眺め方を発見したことが、もやもやしたわたしのこころに直接効いて来てなにかおおきなかたまりをひとつ引き受けた気持ちがしてくる。

 ずっと旅をしてきてやっと、同じ地平線を歩くひとをみつけたようなこころのまま、眠りについた。

       
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