その三七九

 

 

 







 






 

























 

あるくひと ゆめとうつつが 巡り会うまで

 みなみときたを結んでいる歩道橋を久しぶりに渡る。
 通路のまんなか地点あたりの手摺沿いに作務衣を着て書のパフォーマンスをしている男のひとがいる。
 むかしここの辺り、ちょうど斜め前の位置には、眼の不自由なおとこの人がリコーダーでなつかしくてやわらかい
曲を吹いていた。

 ならべられた色紙にはいろんなことばが、おおらなか筆遣いで書かれている。
<きっとあしたもだいじょうぶ>や<しんぱいない>だったり、<あなたはあなたのままで>だったり。
 それを歩きみながら、みんなだれもがなにかことばを求めてるんだなって気がしてくる。

 ひとりで歩く時は早足になる。
 景色に立ち止まらないようにして、なるべく速く歩く。
 コーヒを飲みたい気持ちをがまんして、つかつかと歩く。
いつしかそれが、じぶんのペースになっていって、待ち合わせ迄の2時間ほどが過ぎたあたり、じぶんが歩く前よりもちがうアングルに置かれたようで、すがすがしい。

 無心とまではいかなくても、きらいなものやすきなもののことにも、注意をはらわなくてもすむ時間をつくりだすのは大事なことかもしれないと思う。
 思いに寄り添いすぎない、よそよそしい時間もひとにはきっと必要なんだと思うこのごろ。

 ある日、新聞の切り抜きの整理をしていたら名著『森の生活』の思想家ヘンリー・ソローの晩年の講演エッセー『歩く』を訳された山口晃さんの記事が、本のページのすきまから出て来た。

 <ソローは、毎日4、5時間も「森を通り丘や草原を越え、世間の約束事から完全に解放されて」歩き回った>という。
 そこにつづく<健康のためでも、思索のためでもなく、>という箇所を読んでいて、引き込まれてゆく。
 なんのためになんだろうという、しずかにそのさきのことばを知りたくなった。
<ひたすらこの世界にあることの喜びを、瞬間瞬間感じていた>
 ソローはそう思っていたのではないかと、訳者の山口さんがおっしゃっていた。

 <一つ一つ石を積み上げていると、鳥のさえずりがよく聞こえる。コトッ、コトッと石を置く。するとチチッ、チチッと返ってくる>
 数々のソローの作品を訳して来た山口さんが、5年ほど前から<本格的に農業と大工仕事を始め、半日野外で過ごすようになってから>感じたことだという。

 この記事をよみながら、ソローが歩きながら、すべての
しがらみから解き放たれてゆき、いまじぶんがここにいること、存在していることの不思議さと喜びにつつまれていることをかみしめていることと、山口さんが石のことばで、鳥と会話している瞬間、あらかじめ決められていたみたいにかちっと、歯車がかみ合ったような気がした。
 そんな、なにかがぴったりとあてはまる、二度と訪れないような時間の巡り会わせ。
 うまくいえないけれど、記事をよんでいるわたしもなにか大切な出来事と邂逅している気持ちになっていた。

 そんな鳥と石の呼応を、山口さんは<ああ、これが世界に触れるということか」ということばで結んでいらっしゃる。
 この文章に出会って、<世界>ということについての、
じぶんのなかの問いかけがここにきて、またあたらしい入り口に立っている気がする。

 ふたつの環が、時折、触れ合いながら、<世界>がこんなに近くでひびきあっていることがあることを、ヘンリー・ソローと山口晃さんに、歩く時にからだに触れる風のやさしでもって教えられたしあわせなひとときを感じていた。

       
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