その三八一

 

 

 






 




 


























 

そそぐひと そそがれるひと 遠い黄昏

 レシピ本にたよっていた、二十代のまんなかあたり。
台所に立つときは、バイブルのように、開いていた本があった。
 母の手料理があたりまえのように思っていた頃からなぜだかレシピ本は好きで、買い集めていた。
 後に一人暮らしをするようになった短い間、ぶあつい料理の基礎が書いてある本が、手放せなかった。

 なにかに縛られないと料理も出来なかった頃が、なつかしいようなばかみたいだななんてことを思いつつ。
 去年のクリスマスに父親が送ってくれた、本が面白かった。
四冊も送ってもらったなかの三冊は、ゴッホ、セザンヌフェルメールたちの描いた世界とともにゆかりの地のレシピが紹介されているものだった。

<セザンヌのりんご>と題された文章をよみながら、あらためて「リンゴとオレンジ」をみてみる。
 テーブルクロスの不安になるような襞や、テーブルの上から今にもずり落ちそうなリンゴ、コンポートにあやふやに乗っけられたオレンジ。
 じぶんの視線の焦点を、どこにもっていけばいいのかわからなくなる、そんな構成が、かろうじてわたしを引き止めているのは、リンゴとオレンジの色彩のほの暗いあたたかさのような気がしてくる。

 何度かみているはずなのに、フェルメールの
「牛乳を注ぐ女」に眼が止まる。
 たっぷり脂肪をたくわえた女の人がピッチャーから
耳のついた器に、牛乳を注いでいる、そのミルクの滴りに
目を奪われて、まだそこにとどまりたり気持ちを抑えながらテーブルに視線を移す。
 そのテーブルの上には、乾いた堅そうなパンがいくつも
載っている。<乾いたパンを牛乳に浸す準備をしている>
というキャプションを読みながら、ひとつのメニューのプロセスの一瞬を描いていると思うと、想像がすこし先にふくらんでゆくのがわかる。
 その先は描かれていないけれど、この本の著者であるキュレーターの方は、そこに<パンプディング>のメニューを写真とレシピとともに紹介していた。

 ゴッホの「旅とレシピ」のひとつのページに香ばしく焼き色のついたアーモンドのキャラメル焼き<プラリネ>が
白い蓋付きの器によそわれていた。
 そのレシピから遡ってゆくと、ゴッホの「花咲くアーモンドの枝」のページに辿り着いた。
<冬の終わりに咲くアーモンドの白い花>は、ゴッホの弟夫婦の子供の洗礼式のお祝いのために描かれたものらしい。
 そのアングルは下から見上げるように描かれていると説明されていて、どうしてなんだろうと思っていたら、<赤ん坊が目を覚ましたときに、木の下から、満開の花をみあげられるように>と記されていた。
 そこにはなにも描かれていないのに、春の兆しを手繰り寄せるあたらしい命のもつはかなげな強さを感じた。

 しぜんに翻弄されたここ二週間ほどを思いながらページをめくっていた。
 むかしむかしのくらしが、形を変えながらも食べるということを通じで、今にまでつづいていることを思うと、ゆらぎながらもそこに一本の遠い道のりのどこかにじぶんたちは存在している足跡が見えているようなそんな気持ちに駆られていた。

       
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