その三八四

 

 

 






 






 




























 

よみびとを 失ったままの うただったとしても

 窓枠が月桂樹に囲まれたドームの形をしている。
ひしめくようなツタの葉の形。そんな窓と壁をぼんやりとみつめながら、いつかどこかでこの風景に出会ったような気がしてくる。

 たったひとつの風景を思い出す時、そこに流れているのは、ゆるぎない風景への信頼だなぁと思う。
 風景と共になつかしい人が、たち現われるときも思い出しているその最中は、絶対的にそのひとがいまも生きているという確信のもとに、なにかを思い出しているんだと思う。

 先日、まどみちおさんの詩に触れる機会があった。
おなじみの「ぞうさん」も、じっくりと味わって聞くとたくさん見過ごしてきたことが、そのひらがなのうたのなかに隠されていたことに気づいて、いままでなにか大事な物を、ぞんざいにしてきたことがすっぽりと浮き彫りになる。

 まどさんの好きな詩を高校生達が紹介している番組を
見ていて出会った、『ぼくが ここに』という詩。

 じぶんがここにいるときに、ちがう誰かがここにかさなっていることはできないという、視点で描かれていて。
 まどさんのそのアングルを感じているだけでもどきどきしてくるのに、すこし展開するとこう結ばれる。
 じぶんもだれかもどこかにいるときそれは、ちきゅうがだいじにまもっている仕事なのだと。
 そしてそれは、だれであれ<「いること」こそがなににもまして すばらしいこととして>。

 十代の彼らの声と共に、この詩を聞いていると、まさにかれらがここに「いること」が、この詩が紡ぐせかいそのものに見えてきて、ひさびさに胸がじんとした。

 「いること」は決してあたりまえではなくて、あなたが、わたしじゃないことも、もしかしたら、ありえないぐらいふつうじゃないことなのかもしれない。
いま、奇跡って書きそうになってそれいがいのことばがうまくみつからない。

 あなたがここに「いること」を、手繰り寄せたくなるのは、もうあなたがどこか遠くへと旅立ってしまったからかもしれない。
 たとえいなくなっても、「いること」を知るすべはその詩をよむこと。
 ほんとうは「いない」なんてことは、出会ってしまったらありえないのかもしれない。
 それは生身の人間と人間として出会わなくても、作品世界にふれるだけだったとしても、いつでもそこに「いること」なんだと思う。
 ひにひに成長してゆく、そんなきもちに、やっと追いついて。

       
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