その三八七

 

 

 






 




 


























 

欠けている 真実ひとつ ゆらゆらとして

 いちにちを終える時、まだなにかだいじなことをし忘れていた気がする。
 それはとても大事なことなのに、すこしも手をつけなかったことのように思えて来て、そのだいじなことがなんであったかを、手繰ろうとするのに、なにかを忘れているという感覚だけがふくらんでいて、うまく思い出せない。

 このぼんやりとした感情に包まれながら、坂道を上りながら、ふと目にした道路脇に直方体の形で剪定された植え込みを見ていた。
 ツツジの葉をちいさくしたような中に、白い鈴蘭のような花をつけている。
 遠い昔この花の名前を、聞いたことがあったことを思い出そうとして。

 その規則正しい植え込みを何ブロックか越えたところで、思い出した。
 ふいにディープインパクトの鼻筋のしろい愛らしい線がうかんできて、あぁこの花は、母が教えてくれた馬酔木だったことに気づいた。

 うまがようき。
 おかしな憶え方をしているせいか、馬とともにファンファーレと歓声までが聞こえて来て、なにかがゆらいでゆく。
 馬の遺伝子は、父馬が大事って聞いた気がして、血の繋がりのほの暗さを思い。絶えずだれの仔であるかを問われてしまうかれら馬の<物語>がいくつかうかんではきえてゆく。

 ここのところ、ニュースや新聞の記事でも「物語」というキーワードばかりみていた気がする。
 だれがだれにうらぎられたのかよくわからないのに、怒っているひとと、同情するひとにわかれてゆく。
 そんなみているひとたちの物語。
 かってにしんじただれかの物語に、ふられた気がしているのかもしれない。

 物語がない時代にひとびとが生きていたことは多分ないかもしれないけれど、いまの<物語>に寄せられる想いのようなものは、ただただなにか目の前にあるものを根拠なく信じたい方向へと向かっている気もするなって思いながら、いつかノートに記していた寺山修司のことばが気になって、ごそごそと探しに行く。

 寺山修司のことを考えると、いつも輪郭があれほどはっきりしているはずなのに、どうして捉えてしまったあとは、なにも掴めていないような気がして、不安になってしまうんだろうって思う。

 そんな彼が死の37日前に語った演劇の可能性についての言葉。
<物語は中断してしまわないと気が済まない。
物語を完結してしまうと観客の中には何も余白が残されない。物語は半分つくって、後の半分を観客が保管してひとつの世界になってゆくこと>

 おそれおおくも、そんなことばに共感してしまう。
 演劇人としての言葉だけれど、同時にそういう性質を持ち合わせていたであろう寺山に、惹かれてしまう。
「書を捨てよ、町へ出よう」にはじめて触れた時、残された余白になかば、おぼれそうになりながら、すがるもののなさに、呆然としてしまったあの感覚はいまも、まだずっと続いていることにうそのようにおどろきつつ

       
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