その三八九

 

 

 








 







 

























 

かさぶたの サインコサイン タンジェント

 こんなことぐらいで、いま居る位置がぐらつくってなんだろうと思う。
 わからないままに、違う世界に連れて行かれてそこから戻って来れるのかどうかもわからないぐらいにこころもとない感覚。

 部屋の片付けをいつもよりは念入りに、ねこそぎすてるつもりで取りかかっていた。
 ありとあらゆる書き崩しや、たまってしまった新聞の切り抜きなどちまちましたものを整理し始めていたら、ふっとじかんが後戻りしてしまった。

 過去に興味のあったものは、どことなくじぶんのはがれそうになっている一部のように見えてくる。
 かさぶたをむりに剥がしたくなるときの気持ちにも似て、掌のなかでそのいくつかをくしゃっくしゃにしてしまいたくなる。

 いっそしてしまえばいいのに、出来ないって、なんだろうとじぶんのなかにまた立返っていることにも、戸惑いながら、切り抜きを見ている。

<正弦曲線>という堀江敏幸さんの本のタイトルと著者のインタビューが掲載された折れ曲がってしわのできたふるい新聞と出会う。
 むかしなやまされた、サイン、コサイン、タンジェントのあの呪いのことばのようなリズムが甦る。
 かつて算数や数学ができなかったわたしが父親にこっぴどく叱られる寸前まで、夜中に特訓をうけて、なきじゃくった深夜の洗面台の鏡に映る、ぼろぼろのじぶんの顔までもが同時にきのうの輪郭をもったように甦ってくる。

 サインカーブなんてもうとっくに忘れていたのに、「うつくしい山と谷がうねうねつづいていく山脈に似ている」
という堀江さんの文章を読んでいると、正弦というかたちが振幅というラインを伴いながら、おぼろげにうかんでくるような錯覚に陥る。

「同じことのくり返しにどれだけ耐えるか」という結婚生活の日常を「正弦曲線という優雅な袋小路」にたとえる堀江さんのその表現力に引き込まれてゆくという記者の視線とおなじ景色をみている気持ちになる。

 日常というひきだし。
 夜を終え、朝を迎えるととひかりを感じるひきだしの中。
 さしこむひかりは開けられてしまった証。
 そこを開いてしまえば、ちらかったものをひとつずつ片付けていかなければ、ひきだしを閉めることができない。
 日常はそんなふうにはじまりながら、収まってゆく。

 すべてのことに片をつけることはできないけれど。それでも、いま大事なものとそうでないものの選択をしているだけで、きもちがもといた場所からどんどん離れて行って、整理されてゆく。
 整ってゆくと、ちがう世界をみている気持ちがする。
 そんな位相が変わるような感覚を、久しぶり味わっている。

 
ささいなことで反応してしまう感情の揺れや、惑い、捨て身、思いがけない邂逅のうねり。
 こんなふうに他愛ない日常は、ありふれた「正弦曲線」に取り囲まれているのかもしれない。

       
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