その三九〇

 

 

 






 







 



























 

くぐっても くぐってもなお 黄昏れてゆく

 広い草原に、ドアの一部だけが、ぽつねんとたっていて。
 そこを開くことをためらいながらも、ドアノブに手をかける。
 ゆっくりとノブがひねられて、開くドア。
 そこで待っているのは、いまは亡き彼にとってのファミリーツリーとしての、血の繋がりのあるひとびとがいた。

 執拗に厳しい父親に育てられた年子ぐらいの三人の兄弟達が、成長してゆくそのさまが、描かれていた映画を観た。
 父親が存在しているとき、食卓でマナーが悪いとか、学校で習ったことを報告しているときの子供達は、目の前の食事にも手をつけられないまま、からだが、ちっちゃくちぢんでしまったかのよう。
 反対に父親が留守のとき、彼らのからだは、のびやかで、まるで坂道を下る自転車に乗っているみたいに山や野を
駆け巡る。

 ふしぎな映画だった。
 彼らの成長を描きながら時折はさまれる、宇宙のなりたちを思わせるビッグバン。
 ふくらみつづけながら、急激に冷やされる熱核反応のようなものや銀河団などの映像が、またたくまに映像詩として綴られて。
 彼ら子供達の居た場所が、ちぎれてしまうぐらいの速さで巻き戻されてゆく。
 俯瞰のスケールがとてつもなくて、笑いたくなる。なのにその反対側で、閉塞感から解放された気分にもなってじぶんの心の置き所がわからなくなるやっかいな感じ。

 時間がほんとうは進んでいるのかあやしくて、過去も未来もすべてがさかさまのようにも見えてくる。
 ビッグバンは、まるでみらいのことのようで
 会ったことのない子孫と出会っていることは、過去の出来事のようだった。

 この映画を見終わったあと、好きな俳優が演じていたことも手伝って、いつまでも頭の中に浮かんでくるシーンがあった。
 幾度か登場する、ドアを開けるという行為。
 躊躇しながらノブにふれるかつて子供だった彼の、手の甲の血管や皮膚の乾きに年月に胸がしめつけられる。
 開いてしまったドアをためらいをひきずりながら、くぐってゆく彼と共に、観客であるわたしも共になにかをくぐっている気持ちを味わっていた。

 まだなにか種のようなものに近いけれど、このくぐるという動作の持つ意味がが、いつかじぶんのなかで育ちそうなそんなぼんやりとした感覚を残したままでいることが、いいような気がして、あの映画を観ていたときの情景をふくめたすべてのことを、屋根をつきぬけるように俯瞰してみたくなっていた

       
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