その三九四

 

 

 






 





 































 

複数の ひとりひとりが ひとりではなく

 誰かのことを思い出すときに、いちばん先に思い出すのは眼のような気がする。
 おいしそうなものを前にしたときや、すこしだけその話の輪郭がつかめなさそうな、視線の泳ぎ方やこころを解放しかかったときにみせてくれた、苦悩の入り口に立っているような眼差しなど。

 いまは、ひとりのひとのことを思い出しながら綴ってみたけれど。
 雑踏から雑踏を歩き疲れて、たえず誰かとすれ違ったのに、そこに見知った人が、だれひとりいないことがあたりまえであることが、思えば不思議な現象のような気がして来た。

 ほとんどの人生をそうやって、ひとは道を歩いてゆくんだなって思ったら、じぶんと知り合ってくれたひとはほんとうは、うそみたいな確率で出会ったことになるかもしれないと、あたまのなかをらせんが巡る。

 いつだったか、新聞のなかのモノクロのなかにぼんやりと浮かぶ写真から眼が離せなくなったことがあった。
 その人の眼がいまも忘れられない。
 なにかを語りたいのに語る術がわからないといったそんな眼をしていた。
 キャプションには、<サイクルリキシャの車夫・・・>
と途中までよんでそこに続くことばを眼で追ったときに奇妙な錯覚に陥った。
・・・車夫43人を重ねた肖像 2008年7月18日 インドバラナシの路上>
 と書かれていたから。

 ひとりの男の人の、なにかを思いつめたようになにかを
視ていると思っていたその視線は、たったひとりのものではなくて、ある種の集団のひとりひとりが
「重なりあった群像写真」だった。

 しばらく、こういう感覚ははじめてだなって思いながら
ぼんやりとしていた。
 共同体に所属する、「複数の人物を一枚の印画紙に重ね
焼きしたもの」という、文章をみつけたとき、ほんとうは
種明かしされないままのほうが、よかったかなって思った。
 しかもそれはほとんどアジアで暮す人間の顔だった。

 じ
こういうものを視ていると、とっくにどこか「共同体」というものから、はみ出てしまっているような半端に関係しているようなじぶんを振り返りながら、「個」っていうのはただ「個」だけでは成立しないものなんだなって、思う。
 たくさんの人の顔がいつしかひとりのひとのように見えてしまう仕掛けを、企てたこの写真家の被写体の向こうにもたくさんの<共同体>のひとりにみえてしまう視線が隠れていることを、すこしだけ夢想していた。

       
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