その三九八

 

 

 






 







 





































 

はじまりの なまえはいつも 風にまぎれて

 長方形にふくらんだ真空パックのなか。
 細長い金属でできた直方体の棒が、2本ピアノ線でつり
下げられている。
 時折、その袋が風にふれると、なかに閉じ込められた2本がふれあって、風鈴のように鳴る。

 このあいだ、なつかしい方からメールをいただいた。
 わたしがはじめての短歌集をつくるときにとてもお世話になった出版社の社長さんだった方。
 表参道のスパイラルホールで開催されていた、
「フューチャー縁日」ー祝福された偶然ーと題されたイベントに彼が所属する詩のレーベル<oblat(オブラート)>が出展していたので、ひょっこり訪れてみた。

 彼らのチームは、<詩の回覧板>を試みていて、ひとりの書いた詩に続けて、つぎの方が綴った詩がつらなって、
そのつぎの方がまた詩をつむぐ。
 連詩のかたちを、なるべくはやく次の人にまわすという、おなじみの回覧板のルールでもって、こしらえられていた。

 →に沿って読んでいる合間にも、夕刻を過ぎていろいろな方が遊びにきていて、スパイラルにつくられた現代の縁日の屋台ではじめましてや、こんにちはが、交わされる。

 そこには、誰もが参加できるようにいっさつのノートが
置いてある。谷川俊太郎さんのはじまりの詩で始まる、
<アクロスティック・ノート>。
 知らない人、よく知ってる人もみんなが、そこにことばをすこしずつたしながら、くさりのようにつながる詩をつくりあげる。
 にぎやかな屋台でノートに向かって一心に鉛筆を走らせている方がいる。作詞家の御徒町凪さんだった。

 以前、南佳孝さんのライブに行って好きになった
<この歌が届くのなら>という曲の詩をぼんやりと思い出しながら、出会い頭のようにお目にかかれたことがちょっとゆめのようにうれしかった。いやすごく。
 むかしの縁日とおなじようなのに、どこか違う。
 スパイラルの縁日は、どんどんあたらしい人との縁がつながってゆく、面白さに満ちていた。

 すこし酔っていたせいか、はっきりと憶えていないけれど。
 回覧板のいちばん最後の詩に立ち止まる。
 ほんとうの最後のさいごの受け手は、誰かに手渡すこともなく渡された物を受け止めることに徹した役割でしかないことが綴られていた。
 最後の回覧板のことにだけ想いを馳せている詩。
 誰にも手渡すことのない回覧板って、よく考えると、ちょっぴりさびしさを纏っているものなんだなと。
 そんな気づきが描かれていることそのものが、まさに回覧板の詩なんだなって。たまさかしんみりとした気分がやってくる。

 それは、みちるさんという詩人の方の作品。
 わたしがこの作品とても好きですよって、元出版社の社長さんに伝えたら、じつはそれ、ぼくなんだよって、小学生の男の子が秘密基地をこしらえているときみたいな表情で云った。
 そして、いちまいのすてきな名刺を差し出してくれた。
 ぼく、みちるになりました。

 えっ。 って聞返しながら、彼はもういちど云う。
 ぼく、みちるになりました。
 八月六日。<未来の縁日>でいちばん詩にちかいことばは彼のひとこと、それだったのかもしれない。


       
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