その四〇〇

 

 

 





 







 








































 

はてしなく おもちゃにしてる メビウスの尾

 すきな文章は伝染する。もしかしたらわたしはこの文体の迷宮からぬけられないんじゃないかとすこしだけふあんに似たものを感じながらも、ほかの人の文章からとはあきらかにちがう、<リズムの毒>みたいなものに、とっぷり染まって身をまかせたい魔力を感じていた。

 鹿児島生まれの大阪育ちのわたしも、30年以上関西のことばにまみれながら暮らしていたけれど、眼で追うことばが、眼で追うだけではあきたらずいちどは、ぐぐっとこころにつきささったフレーズを声にだしたくなりながらも、がまんしたりしてそれでもすこしだけ、ひとりごとのように読みたくなって解き放たれたように、声だけで読んだりして。


 ひさしぶりに町田康さんの本を本棚から取り出す。『壊色』(リトル・モア刊)3版になっているのが1997年9月16日なので、そうとうむかしに買い求めてそれでも、捨てられなかったのは、町田康さんの著書というだけでなく、寺門孝之さんの表紙にひとめぼれしたからかもしれない。

 表の表紙には十字架を胸にゆらした不死鳥が、一声ないているようにみえる。たぶん(かれ)が、ほとばしるように鳴いたあと、声の余韻と共に散ってしまった黄色やブルーの羽根があわく描かれている。
 このすてきにクレージーなせかいに、おもわず手が
伸びたのだと思う。

 この間、ひさしぶりに町田康さんの文章と画家・寺門孝之さんの絵で構成された絵本『猫とねずみのともぐらし』を個展会場でみつけた。
 黄色い十字路にも見える十字架。
 そこに青い毛を持つ猫がいて。
 猫が撫でられると、きまって眼をほそめて顔を、ぐんぐんぐんと上にのばしては、このまま死んじゃいそうなぐらい心地よさそうな表情をする部位、額の上にねずみが一匹いる。

 はじまりは教会の前の広場から。猫とねずみはいっしょにくらしていたのに、猫のまっすぐすぎる本能のせいで、いろいろあって、ある日をさかいに<猫はねずみをみると、追いかけずにいられ>なくなったそのてんまつが、表情たわわに描かれている。

 食べるものがなくなったかれらは、とおりがかった王子や王女やマリア様にまで、たすけをもとめようとするときの、前足をあげてぷりーずと云っていそうな感じの猫の姿が愛らしい。
 そしてかれらが途方にくれたとき、猫とねずみは同じ方向を向いていなくて、背中あわせなのに、それでも彼らはふたりで同じ場所で暮らしたものどうしの、なにかみえない同士のような気配が絵のなかに漂っている。

 よくみると、道を描いたところは彼らがなんどもいったりきたりしたように、太い筆跡のなかに細くとがったものが、みえていて、それはまるで猫のつめあとのようだなって思ったりしながらページをめくっていた。

 さいごのページが訪れた時。からっぽな感じが迫ってくるのを、もういちど逆戻りさせたい気分になる。
 まだおわらない。おわらないっていい聞かせながらさいごのさいごの町田康さんのつっこんだ1行に救われる。
 幼い頃に好きだった絵本に邂逅できるのもうれしいけれど、おとなになってから、ほんとうに好きな絵本に出会えるのも、十字路でだれかとだれかが出会っている風景のようで、未知にみちていてすなおにいいなって思う。
 感想文を書かなくてよくなった夏休みにちょっと感謝して。

       
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