その四〇三

 

 






 





 











































 

たなごころ 握ってひらいて のがれのがれて

 ちいさな紙の束を束ねる。はじっこをできるたけあわせて、ばらばらにならないようにカキンとやる。
 紙がすこし分厚いときのあのゆびにかかるかすかな圧力のなかには、みえないぐらいの罪悪感が潜んでいる気がする。

 ゆめを束ねて、置き去りにすると、いつまでも記憶の中に収納されて、なくなってくれないような。

 待っているからすべてのものがやってくる訳じゃないことを知りながら、待つことをちゃんと忘れようとしているときに限って、待っていることに支配されていることに気づいたときみたいに。

 いま、あたまのなかにある絵が、ほんとうならいいのに
なって思いながらも、それをさらさらとせせらぎのなかに
捨ててしまうことを想像してゆくとき、

 名前もしらないきれいな蛾が、磨りガラスの外側で休んでいることを発見した。♂か♀かわからないけれど休んでいるその蛾のまわりを、くるくると白地にかすかにグレーの模様のおなじ種の蛾がまわっている


 そっとしておく。音をたてないように。いないふりをしながら、はじめからいなかったもののようにふるまいながら。

 ふるい雑誌のページを捲っていたら、日本最古かもしれない明治半ばから末ぐらいのホッチキスの写真が載っていた。
 U字型金属針(ステーブラー)が、ばらばらに散らばっていて
<紐穴のついた針をパンチ部にセットし>、<垂直に強く
押し込んで>紙をとじるものらしい。

 この商品を紹介していた推薦者の方は、「どんな物にも、始まりのものがある」という文章から始まっていて、現在は博物館に勤めていらっしゃる。その前は企業のエンジニアだったらしく、こういう物のはじまりにとても興味をそそられると綴られていた。

 束ねることが仕事だった道具のはじまりを思う。
 ひとびとはその頃何を束ねていたのかな、と。
 そのとき、たとえば紙をカキンとやるとき、どんな音が
したんだろう、とその黒い塊のパーツを持つゴツゴツとした写真から想像する。

 時間が経って、玄関の磨りガラスをみてみたら、あのときの蛾はもういなかった。
 はじめからいなかったかのように、いなかった。
 わからないけれど、どこかへと向かって飛んでいったらしく、いなかった。よかったなって思いが湧いてくる。

 ふたたび、カキンとやる。なにもなかったところに傷がついたみたいで、微量のつみのいしきがよぎる。
 ものを束ねるときの、心地よさとは裏腹にきっと人には束ねられたくないんだな、と、さっき見たばかりの解き放たれたその空間が残像のように頭のなかでついたり消えたりしていた。

       
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